尚可喜
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本貫は山西省平陽府洪洞県、後に遼東都指揮使司海州衛。祖父の尚継官は科挙に及第し、父の尚学礼も、兄の尚可進と尚可福も、従弟の尚可義も、明の官吏であった。
明の万暦32年(1604年)に生まれ、父に従って従軍し、耿仲明とともに毛文龍に仕えて、明のために辺境の要衝を防衛した。後に袁崇煥が毛文龍を誅殺したために、後金(清)に投じ、清軍に従って関内に入って戦った。
順治6年(1649年)に平南王に封じられ、耿仲明と広東に進出して、大いに明軍を破った。後は広東に入った。尚可喜は呉三桂らとともに藩王に封じられ、広東で私的に税金を徴収し、毎年数百万両となった。
康熙12年(1673年)に、尚可喜は老いて、故郷の地に帰り、広東の地を次男の尚之信に継がせようと願い出た。しかし、これに対して清朝廷は詔を出して帰郷は認めるが世襲は認めないとし、尚之信ら三藩を廃止しようとした。
呉三桂・耿精忠は軍隊を出し、尚之信はそれに呼応した(三藩の乱)。康煕15年(1676年)、挙兵に反対した尚可喜は息子によって軟禁され、10月29日広州で73歳で悶死し、後に海城県の文安山(現在の遼寧省鞍山市海城市八里鎮大新村文安山)に埋葬された。
