尹玉羽
From Wikipedia, the free encyclopedia
天復年間、計吏とともに長安に赴き、その文才を称賛された。父の喪に服して、身体を痩せ細らせた。喪が明けても、門戸を閉ざして隠居し、仕官の意を見せなかった。後梁の開平3年(909年)、永平軍節度使の劉鄩に召し出されて永平軍節度判官となり、京兆府・開封府・滑州・兗州の従事を歴任した。後唐の清泰2年(935年)、光禄寺少卿となった。秦中に隠退し、林や泉のあいだで詩を作り、酒を飲んで楽しみ、自ら自然先生と号した。宰相の張延朗に招かれたが、固辞して従わなかった[1]。
天福元年(936年)、後晋の高祖石敬瑭が洛陽に入ると、玉羽は詔を受けて入朝し、自著の『自然経』5巻を献上して、老齢を理由に引退を願い出た[2]。天福2年(937年)、少府監に任じられて致仕した[3]。天福5年(940年)6月、死去した[4]。著書に『武庫集』50巻があり、当時に通行した[2]。