尼子四郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
1865年、安芸国山県郡戸河内村本郷(現在の広島県安芸太田町)生まれ[2]。家系は尼子氏の流れを組み、代々庄屋をつとめた[2]。しかし維新の社会的変動で庄屋職の父は没落、母は四郎出産後死亡し、不遇な環境で育った[2]。
12、3歳の頃、広島に出て漢学を学ぶ。1887年、広島医学校(現・広島大学医学部)を首席で卒業。同級に富士川游ら。一年研修の後1888年、新設された東京帝国大学医科大学選科・青山内科に入った[2][3]。しかし1890年、腸チフスに罹って中退。離京して島根県益田市で静養した後、郷里・戸河内村や山口県下松市で開業するが、カリエスに罹患するなどで医院を畳み、再び東京に出る。同郷の富士川游、呉秀三、三宅良一らと1896年「芸備医学会」(現在の広島医学会)を創立し広島地方の医学水準向上に寄与した[2]。
勤務医を経て、1903年に東京の谷中で「尼子医院」を開業、すぐに千駄木に移り同年、ドイツの医学出版を模範とした日本初の医学文献抄録誌「医学中央雑誌」(以下「医中誌」)を創刊した[1][3]。また、各種の医書、医学雑誌を編集・発刊[2]。
昭和5年7月7日卒去。行年66歳。法号は顕興院釈寿山居士。寿山は号。墓所はかつて文京区向丘の一音寺にあったが[4]。現在は築地本願寺和田堀廟所にある。