佐々木系図(「佐々木文書」)によれば、軍記と同じく誠久の嫡男としているが、通称は軍記と異なり孫四郎、刑部少輔の官途を名乗ったとしている。
しかし、一次史料には氏久という諱は見ることが出来ない。
かわりに「証如上人日記」天文二十年十月十五日条に尼子誠久に続いて「同孫四郎」の名が記されており、佐々木系図が正しいとすれば、ここに登場する孫四郎が氏久のことであろうと推測できる。
天文20年(1551年)前後、尼子晴久は芸備方面への出兵の協力要請や家臣の任官のために本願寺と連絡をとっており、この「証如上人日記」の記述はこれに関連する尼子氏とのやりとりを記したものだが、ここに孫四郎が登場することから、その名は中央にまで知られていたことが分かる。佐々木系図の刑部少輔の官途が正しいとすれば、任官を受けたのはこの後であろう。
しかし、氏久と推測される人物は、以後の文書には登場しない。このため、軍記のとおり新宮党の粛清のときに死をまぬがれたかどうかは不明で、勝久の尼子再興戦に参加したのかどうかも分からない。
軍記では一様に氏久は上月城の戦いにおいて切腹したとしているが、天正六年七月十二日「吉川元春自筆書状」によれば「尼子勝久・同助四郎方ニ腹ヲ切せ申候」と記されており、これは前述「証如上人日記」の尼子孫四郎とは別人と思われるため、氏久がこのとき切腹したかどうかも定かではない。
ちなみに竹元春一『上月城史』では、このとき勝久と共に切腹した人物は尼子氏久ではなく尼子通久であるとしている。