尼子勝久
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天文22年(1553年)、尼子誠久の五男として生まれる。天文23年(1554年)、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって粛清された際、小川重遠によって助けられる。後に東福寺の僧となった[1]。
永禄9年(1566年)、尼子義久の代に、毛利元就の侵攻を受けて尼子氏は滅亡する。勝久は、尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されて還俗し[1]、隠岐国で機会を窺うこととなる。
永禄12年(1569年)6月、勝久らは出雲国に入り、忠山城(八束郡千酌)に拠る[2]。のち、新山城に移った[2]。続いて月山富田城奪還を目論むが、城将・天野隆重は籠城し、攻略は進まなかった[2]。当時、毛利軍は大友氏との戦闘のため北九州に布陣していた[3]。
永禄13年(1570年)1月になり、毛利軍は、毛利輝元を主将として、吉川元春、小早川隆景らと共に出雲に兵を進めた[2]。同月から2月にかけて、尼子方の多久和城、布部城は毛利軍に攻撃された[2]。布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へ逃れた。天正2年(1574年)、因幡国の山名豊国の支援を得て今度は因幡からの出雲侵攻を企てるがこれも失敗に終わった。
その後は織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国方面軍に付けられ、天正5年(1577年)には宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略した際にその守備を命じられた。天正6年(1578年)、毛利氏は宇喜多氏と共に総勢3万で上月城に迫った。秀吉は信長の命により別所長治が籠る三木城攻略に専念することとなり(三木合戦)、近侍させていた亀井茲矩を使者として勝久らに上月城からの撤退を要請した。
しかし勝久らはこれに従わず籠城、毛利氏の攻撃に遭いついには降伏する(上月城の戦い)。勝久は嫡男・豊若丸、兄弟の氏久、重臣の神西元通らと共に自害した[4]。享年26。
一方、山中幸盛は捕虜となり移送される途中に斬殺された。これにより大名としての尼子氏再興運動は潰えることとなる。
なおその後の再興運動の残党軍は、尼子氏一門格亀井氏を継ぐ亀井茲矩に率いられる形となり、秀吉麾下にて鳥取攻略・朝鮮出兵参陣と軍功を重ね、因幡国鹿野を、その後転封を経て長州の毛利氏に隣接する石見国津和野を拝領、津和野藩(4万3000石)として幕末まで続いた。
伝承
碑・供養塔
- 尼子勝久公之碑(島根県松江市真山城址)
- 尼子勝久公四百年遠忌追悼之碑(兵庫県佐用町上月城址麓)