山ジョアン
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奥州での宣教と江戸送り
山は密かに日本に帰り、やはり日本に戻ってきたアダミと1620年に会津の猪苗代で再会し、主として奥州の宣教に従事した[4]。キリスト教の弾圧が厳しさを増す九州にくらべ、キリシタン大名の蒲生氏郷の一族が支配する奥州の会津はまだ平和だった[6]。同年にはローマ法王パウロ5世が日本の信徒へ送った激励の教書を、司祭であるジョアン・バプチスタ・ポルロが会津にも届けている[7]。しかし蒲生家の重臣で猪苗代城代の岡左衛門佐(さえもんすけ)が、若松の城主で氏郷の孫にあたる蒲生忠郷に棄教を迫ると、会津でも弾圧が始まった[8]。1629年1月12日の米沢での殉教(北山原殉教遺跡)についての報告を、若松に潜んでいたポルロが、マカオの司祭であるアンドレ・パルメイロを通じてローマへ送っている。しかし、報告書には当時の日本人でなければ読めないような侍の名前なども正確に記されており、米沢の殉教を実際に見に行って報告したのは、山ではないかと考えられている[9]。
同年に山も会津で捕縛され、1カ月以上会津若松の牢に閉じ込められた後、厳重に警護され、雪の山道を若松から6日間をかけて江戸へ送られた。まもなくして火刑を宣告され、先に送られていた若松の信徒15名と共に江戸中を引き回された。しかし山の書いたキリスト教に関する上申書に幕府の役人が興味を示し、山のみが牢に戻された。1630年にアダミも会津から江戸へ向かい、1633年に長崎で殉教した。山は4年間を江戸の牢内で過ごしたが、キリスト教を弾圧する幕府の方針が変わることはなく、1633年9月29日に66歳で穴吊るしの刑で殉教した[10][11]。