山上宗二記
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原本は筆者の宗二が所持していたのであり、それを自ら複写した転写本が諸方へ流布した。宗二が複数の弟子に書き与えたため、宗二自筆と認められる類本が十冊ほど現存している。なお、もともと外題が付けられていなかったため諸本の表題は一定しておらず、「瓢庵茶談」「珠光一紙目録」などの諸例が見られる。また『続群書類従』にも「茶器名物集」として収録されている。諸本は奥付の違いにより、天正16年の正月に書かれた「正月本」系統と同二月の「二月本」系統の二種類に大別される。
表千家の不審庵本は自筆本の一つとして評価が高く、岩波文庫「山上宗二記」に採録されている。ただし、類本に記載があって不審庵本に記載のない事項もあり、検討に際してはなるべく多くの類本を参照する必要がある。
構成と特色
主に茶入、茶壺、掛軸(掛幅)といった茶道具とその所持者を評価の高い順序に従って列挙しており、これにより当時の茶道具のヒエラルキーが判明する。またそれぞれの道具に関しての心得が記されているが、要所要所で「口伝」と言って筆を止めており、金子(金銭)による口伝の伝授が行われていたと推測されている。後半になると「茶湯者覚悟十躰」として、「一期に一度」など茶人の心構えが説かれる。しかし特に重要視されているのは、「名物」を持たない「侘数寄」であっても名士などに気後れをしてはならないといった態度であって、『南方録』のような禅宗を特別に強調した過剰な精神論ではない。
「二月本」には冒頭に「珠光一紙目録」という資料が掲載され、自らの茶の湯の起源を村田珠光(応永30年・1423年 - 文亀2年・1502年)に遡らせて権威付けている。しかしここでは珠光が能阿弥(応永4年・1397年 - 文明3年・1471年)を通じて東山時代の足利義政(永享8年・1436年 - 延徳2年・1490年)に茶の湯を教えたとしているものの、義政が小川御所を出て東山に隠棲したのは能阿弥没後の文明7年(1475年)であるから、この部分に関しては信頼するに足らない。ただし、義政が隠居を決意したのは1464年(寛正5年)であり、能阿弥に君台観左右帳記を編纂させるなど東山時代以前に趣味生活に入っているから、珠光が能阿弥を介して小川御所時代の義政に茶を教えた可能性はなお残る。なお、「珠光一紙目録」前半部は、他の部分と明らかに筆致が違い、あるいは「坊主(利休)より請け取り申し候は、今度の身上乱れ候時、失い申し候」と記す一巻を正確になぞったものとも考えられる。
資料としての『山上宗二記』
秘伝書でありながら「名物」の紹介を中心とする点からは、当時の数寄者がこうした道具の拝見を通じて養われる目利を必須技能としていた実態が窺われる。
また同書では茶道具を「名物」と「数寄道具」に大別する。前者は唐物を主体とした権威をもった道具であり、対して後者は堺の数寄者達が好んだ「麁相」(そそう)を感じさせる道具である。これは茶の湯が停滞していた状況にあって、進取の気風をもった堺衆が既存の権威を否定することで茶の湯を刷新しようとしていたものと読み取ることができる。そのような意味では、「わび茶」の発生とは「名物」を礼賛する価値観への否定であったことをよく示している。
またこのような価値観の変化は道具の順序などによく表れており、先行する「正月本」では茶入を「茄子」「肩衝」の順で記していたが、後の「二月本」ではこれが逆転している。その原因は書院向きとされていた「茄子」から小間向きの「肩衝」へと、数寄者の評価が移っていったからではないかと説明される。
「わび茶」の発生はこのような時代相を背景としており、同書からは生々しくその空気を読み取ることができる。
同書はまた茶室の図が多く載せられていることでも貴重である。「三畳敷は、紹鴎の代までは、道具無しの侘び数寄を専らとする」という記載もあり草庵茶室の成立を考える上でなくてはならない資料を提供している。なかでも「紹鴎四畳半」の図は研究者によって再三取り上げられており、草庵成立直前の茶室のありようを生々しく伝えている。