山中隣之助
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武蔵国秩父郡小鹿野町(現:埼玉県秩父郡小鹿野町)で、鍛冶屋・忠次郎の長男として生まれる[1][3]。慶応元年(1865年)、江戸に出て銃砲の製作を行い、江戸幕府の銃砲御用を勤めた[3]。戊辰戦争に当り銃器弾薬の製造を行って諸藩に供給し、巨万の富を築いた[1][3]。その後、明治政府と関係を持ち、兵部省、司法省、会計局などの御用達を勤めた[3]。第三十二国立銀行取締役、 同東京支店主任、東京毛織物取締役、紅葉館取締役、富士製紙取締役、帝国製糖取締役、東京瓦斯取締役、東洋汽船監査役、日清紡績監査役、山中銀行頭取、東京商業会議所議員などを歴任[1][2]。また、日本鉄道会社理事、豊川鉄道取締役、秩父鉄道取締役、水戸鉄道取締役などを務め、鉄道建設に尽力した[1][3]。
政界では、京橋区会議員、同区衛生委員、同区所得税調査委員、日本橋区・京橋区連合会議員、東京府会議員、東京市会議員、東京市区改正委員などを歴任[1][2][3]。1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から出馬して当選し、議員集会所(立憲改進党)に所属して衆議院議員を一期務めた[1][2]。東京市会議員として同市水道常設委員であったため、1896年(明治29年)1月、雨宮敬次郎の不正鉄管事件(日本鋳鉄疑獄)に連座し、市会議員風間信吉、同星松太郎と共に収賄容疑で収監されたが、3名は罪証不十分のため不起訴となった[4]。その後は、実業界の活動に専念した[1]。
その他、小学校などの建設・維持費、疫病の予防費などへ多額の寄付を行った[3]。