小島勇之助
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東京生まれ[1]。父は実業家で衆議院議員も務めた山中隣之助[1]。生まれて間もなく小島兼美[注釈 1]の養子となる[3][4]。実兄には山中勇(東京山中銀行頭取[4])がいる[3]。
学習院高等科を経て[3]東京帝国大学医科大学薬学科に学ぶ[1]。在学中にはスポーツに打ち込み、1911年(明治44年)11月の東京大学運動会では100m走で優勝(12秒26)[5][注釈 2]。1911年(明治44年)、日本が初めて出場する1912年ストックホルムオリンピックの代表選手を決める国際オリムピック大会選手予選会にも出場し、棒高跳では2.68m(初代日本記録)[7]で優勝。1913年(大正2年)には第1回全国陸上競技大会(後の日本陸上競技選手権大会)において400m走で優勝(58秒8、三島弥彦の日本記録を更新)[8]。
1913年(大正2年)に東京帝国大学を卒業[3]した後は、東京山中銀行[3][1]、スタンダード運動具[3]、帝国電化[3]、大阪舎密工業[3][1][注釈 3]、松竹キネマ[3][1]などの重役を務めた[1]。
1920年(大正9年)、京都市上京区染殿町(梨木神社の北側)に移り住んだ[1][注釈 4]。敗戦後、小島邸は進駐軍に接収され(のち返還)、京都市立京極小学校の前に建てた住居で余生を送った[10]。