山内真次
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遠江国城東郡西方[注釈 1]の人。若い頃に尾張国に出て関越後という武士に従い、16歳の時に初首を挙げたという。後に故郷に帰り、近隣領主の高天神城主・小笠原氏助に仕える。元亀3年(1572年)武田信玄の西上作戦によって高天神城が攻められた時、浜松城の徳川家康への使者に立てられている[3][7]。
次いで東条松平家の松平家忠の家臣となり、同家老の松平康親の指揮下に入る。康親とともに諏訪原城に入り、遠江・駿河戦線に転戦してしばしば武功を挙げた。天正9年(1581年)松平家忠の没後はその跡を継いだ松平忠吉の配下となり、引き続き松平康親・康重父子の指揮に従う。天正10年(1582年)康親が駿河三枚橋城に移るとこれに従い、天正壬午の乱では後北条氏の軍勢と戦う。天正18年(1590年)小田原征伐では鷹ノ巣城攻めで戦功があった。同年に徳川氏は関東に転封となるが、真次は故郷を去り難いとして一旦辞去した。しかし程なく忍城主となっていた松平忠吉に再仕官し、400石を与えられている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに従軍。戦後に忠吉が尾張清洲藩主となると300石を加増された[3][8]。
慶長12年(1607年)忠吉が亡くなると家康の命で川中島藩主・松平忠輝に1,100石で附属させられ、忠輝が越後高田藩主となるとさらに300石を加増された。大坂の陣では両陣出陣し、夏の陣では松平重勝の指揮下にあった。元和2年(1616年)忠輝が改易となると、尾張藩に就封していた徳川義直に仕えた。寛永7年(1628年)名古屋で没。長男の真吉は病弱だったために別家を立て、家督は次男の真秀が継承した[9][5]。