山口波津女
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人物
1922年(大正11年)父の義晭が「啼魚」の俳号で、「水無月句会」という家族句会を始める。
1924年肺尖カタルと診察され、兵庫県西宮市の高級住宅街「香櫨園」(西宮七園)にて転地療養。1926年、自宅に高浜虚子や村上鬼城が来泊。俳号に「波津女」を使い始める。
1927年(昭和2年)山口誓子に俳句の指導を受け始め、翌1928年10月2日に誓子と結婚。波津女の実家の敷地に新居を構え、本格的に句作を始める。
1937年7月、社団法人日本放送協会関西支部のラジオ放送「婦人俳句の鑑賞」に出演する。同年、父の義晭(浅井啼魚)が死去。1945年、太平洋戦争末期の大阪大空襲で自宅を焼失。蔵書や家財など一切を失う。
俳句雑誌『ホトトギス』『馬酔木』の同人を経て、1948年に夫・誓子の主宰『天狼』創刊と同時に同人となる[2]。
1951年6月、第一句集『良人』(りょうじん)発刊。1953年、西宮七園の一つ苦楽園へ転居。1956年、母まさ死去。1965年、誓子と日本中を旅行する。1974年8月、第二句集『天楽』を発刊。
1985年6月17日、心不全のため死去。享年78。2年後1987年10月、遺句集として第三句集『紫玉』が刊行された。
波津女に先立たれた誓子だったが、誓子の療養生活では波津女が献身的に看病した。誓子は「妻にして母、主婦にして看護婦」と波津女を評するほど、深い愛情で結ばれていた[1]。
なお、波津女は遺産を神戸大学に寄贈している。誓子と波津女の自宅は阪神・淡路大震災で倒壊したため、跡地に句碑と記念碑が建立された。神戸大学文理農学部キャンパス(神戸市灘区)に自宅が再現され、山口誓子記念館として不定期に公開されている。