山垣城

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別名 万歳城、万歳山城
城郭構造 連郭式山城[1]
築城主 足立遠政
築城年 承久3年(1221年
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山垣城
兵庫県
別名 万歳城、万歳山城
城郭構造 連郭式山城[1]
築城主 足立遠政
築城年 承久3年(1221年
主な城主 足立氏
廃城年 天正7年(1579年)?
遺構 曲輪、竪堀、横堀、堀切[2]
位置 北緯35度16分26.4秒 東経134度59分41.1秒 / 北緯35.274000度 東経134.994750度 / 35.274000; 134.994750座標: 北緯35度16分26.4秒 東経134度59分41.1秒 / 北緯35.274000度 東経134.994750度 / 35.274000; 134.994750
地図
山垣城の位置(兵庫県内)
山垣城
山垣城
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山垣城(やまがいじょう)は、兵庫県丹波市青垣町山垣[3](旧・丹波国氷上郡[4])にあった日本の城山城)。鎌倉時代から安土桃山時代にかけての足立氏の本拠である。万歳城[1][5]万歳山城[6][7]とも呼ばれるが、山垣城の北に位置する別の城も万歳山城と呼ばれる(後述)。

山垣城は、万歳山(ばんざいさん[8]、ばんざいやま[6])から続く尾根の先の「城山」にあり[2]、標高235メートル、比高80メートルの場所に位置する[1][2]。城の南西を、北西から南東に向けて遠阪川が流れ、北西には遠阪峠を経て但馬国へと通じる街道が、東には福知山市方面へと向かう街道が通っている[2]。北の万歳山からは遠阪方面を眺めることができるが、山垣城跡からは南東の遠阪川流域しか見えず、展望は良くない[2]

歴史

承元3年(1209年)、足立遠元の孫(または3代の孫[9])の遠政が氷上郡佐治荘(佐治郷)の地頭職に補任され、承久3年(1221年)、武蔵国足立郡から入部して山垣城を築いた[6][7]。以後、足立氏は山垣城を本拠とし[1][6]、旧遠阪村神楽村佐治町をその勢力圏とした[10]

足立氏は荻野氏赤井氏が台頭すると、その傘下に入ったとみられる[1]元亀2年(1571年)11月、但馬の山名祐豊家臣・山名豊直により山垣城は攻められ、赤井忠家荻野直正の救援を受けて撃退した[11]。この時の城主は足立基晴だったという[12]

天正7年(1579年)5月[8]、北西の遠阪峠から侵攻した羽柴秀長の軍勢により[1]足立光永の守る遠阪城が落とされ[8]、次いで山垣城も落城した[1][13]。この頃の山垣城主は足立基助[1][13]、または足立光基とされている[14]

構造

高橋成計によると、山垣城は南北370メートル、東西70メートルの規模で、主郭に当たる曲輪群I、その南の曲輪群II、北にある曲輪群IIIから成り立っている[3][注釈 1]。曲輪群Iと曲輪群IIの間には二重の切があり、そのうち曲輪群II側の堀切は曲輪に沿って南東に延びて横堀となっている[3]。曲輪群IIは3つの曲輪からなり、西には塹壕が、南西の斜面には竪堀があり、南には堀切がある[3]。曲輪群IやIIIには堀切や竪堀は見られず、戦闘用に改修され、詰城として即応性を持つのは曲輪群IIのみとされる[3]

周辺

脚注

参考文献

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