山崎定勝 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 不明死没 不明別名 右京進/右京之進(通称)、家勝 凡例山崎 定勝時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 不明死没 不明別名 右京進/右京之進(通称)、家勝主君 豊臣秀吉→秀頼氏族 近江山崎氏テンプレートを表示 山崎 定勝(やまざき さだかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 山崎家盛(または山崎定盛)の子とされるが[1]、諸系図には『山崎家譜』を含めて名前が見られない。年齢的には子と考えるには無理があり、兄弟または従兄弟か。豊臣秀吉の馬廻[1]。 文禄元年(1592年)の文禄の役では、御後備衆のうちで250名を率いて[2]肥前名護屋城に駐屯し、本丸裏表御門番衆に列した[3]。文禄3年(1594年)5月23日、明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、御配膳衆[5]の1人として侍した[4]。 同年、伏見城の普請を分担[1]。加増で1万石となり、伊勢国八知と竹原に所領を与えられた[1]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伊勢口の防衛、大坂福島口の警固に当たり、8月には毛利秀元、長束正家らとともに安濃津城攻めに参加したが、関ヶ原本戦が敗北に終わると逃亡[1]。改易された。 後に豊臣秀頼に仕え、慶長9年(1604年)8月の豊国臨時祭に関与しているが、大坂の陣の頃に散見しないのでそれ以前に没したと思われる。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 高柳 & 松平 1981, p. 260. ↑ 吉村 1934, p. 128. ↑ 吉村 1934, p. 141. 1 2 吉村 1934, p. 173. ↑ 毛利秀秋(または毛利秀頼)、京極高次、中江直澄と定勝の4人[4]。 参考文献 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、260頁。 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214367/96 国立国会図書館デジタルコレクション。 Related Articles