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長束正家

戦国武将 From Wikipedia, the free encyclopedia

長束 正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。弟に直吉らがいる。近江国水口岡山城主。

生誕 不詳[1]
改名 仮名:新三郎→大蔵[1]
概要 凡例長束 正家, 時代 ...
 
長束 正家
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳[1]
死没 慶長5年9月30日[2](1600年11月5日)
改名 仮名:新三郎→大蔵[1]
戒名 大心院殿速成居士
墓所 安乗寺(滋賀県蒲生郡日野町)
金戒光明寺(京都府京都市左京区黒谷町)
官位 従五位下・大蔵大輔、従四位下侍従
主君 丹羽長秀→豊臣秀吉→秀頼
氏族 長束氏
父母 父:水口盛里、母:不明
兄弟 正家、直吉、玄春
妻 正室:栄子姫(本多忠勝の妹)[要出典]
子 助信、長吉、祐順、還誉岌閑、娘(青山正次室)
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生涯

出自

長束正家邸址(愛知県稲沢市長束町)

本姓は大蔵氏という。別説に元々は水口氏で天正年間も居城の水口城が落城したため長束村に在し、その地名を取って長束を称したとの記録もある(但し、年代が合わない)。また、西行庵には、西行の子・隆聖の末裔である佐藤正岑という人物の末裔であるという伝説がある。熊本藩の侍帳の正家の子孫の項目には正家の父・盛里までを水口氏とし、正家以降を長束氏として記録している。

永禄5年(1562年)、水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村[3]で生まれたとされる。

一方で、尾張国で生まれた説もあり、天保12年(1841年)6月に尾張藩に提出されたと考えられる尾張村絵図には「長束大蔵少輔屋敷」と明記されており、徳川家に逆らった長束家が尾張国の村絵図に書かれているということで、信憑性が高いと思われる[注釈 1][4]。

秀吉近臣時代

初めは弟の長吉と共に丹羽長秀に仕える[1]。天正3年(1575年)8月頃の越前攻めの際、大乗院門跡尋憲の知行に関する訴えを取り次いだとされ、天正期には奏者として活躍していた[1]。

天正13年(1585年)に長秀が死去してしばらくすると丹羽家を離れ、豊臣秀吉に仕えた[1]。

秀吉家臣としての正家の働きが一次史料で初めて見出せるのが、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われた九州平定における宮木豊盛と共に行った兵糧米の出納である[1]。

さらに天正18年(1590年)小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し、20万石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。支城の戦いでは家臣の家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが忍城攻めにおいて武功を立てている。戦後には家臣であった弟の正隆が秀吉の直参に取り立てられている。

天正20年(1592年)4月から始まる文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。またこの際には京都の秀吉との中継役も務めていたようで、虎狩で得た虎を秀吉へと贈った朝鮮在陣中の亀井茲矩に対して、防禦指示を兼ねた代筆礼状を祐筆役としての署名と共に返信している記録が残る[5]。

この間、天正14年(1586年)には本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、天正17年(1589年)には長男の半右衛門助信が誕生している。半右衛門には山中三十郎が家老として付けられた[6]。また、天正18年(1590年)1月13日には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かった。

農村支配にも関与しており、文禄3年(1594年)2月には豊臣秀次とも相談の上、中川秀成の豊後入封に際し、隣接する蔵入地の代官を務める太田一吉に協力を求めて戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示している。また、同時期に伏見城の造営にも参画している。

水口城主時代

文禄4年(1595年)に近江水口城5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。

慶長2年(1597年)には、12万石に加増され、官位も従四位下・侍従に昇任した。領内では後に家松山大徳寺となる浄慶寺に保護を加え、この縁故によって後年に正家の遺児が同寺に迎えられ三世門跡・還誉岌閑となる。

慶長3年(1598年)に蒲生秀行が会津92万石から宇都宮12万石に減封された際には、松田秀宣らの蒲生浪人を召抱えた。

関ヶ原

関ヶ原の戦いの長束正家陣跡(岐阜県不破郡垂井町)

秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加する[要出典]が、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられないなど、功を奏しなかった。さらに息子と家臣が水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀っているとの噂が立ち、甲賀衆篠山景春の通報によって家康は城下を素通りした。

慶長5年(1600年)5月5日付の毛利家臣・堅田元慶宛の正家書状[7]で正家が、政権の一連の知行宛行状の継目に毛利輝元の加判を仰いでいることから、輝元への連絡役を任じていた節が認められる[8]。この年、三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。伏見城攻めの際には、家臣の甲賀衆・鵜飼藤助が、松の丸を守備する深尾元春配下の甲賀衆と矢文で交信し、甲賀に残した妻子の安全を保証し恩賞を与える条件で寝返りを勧め、その内部放火を突撃の口火にする秘策により城を落城に導く功をあげた[9][10]。

8月下旬には伊勢安濃津城を攻略する(安濃津城の戦い)。しかし伊勢方面の戦いでは少数の敵船団を家康の本隊と誤認して退却する失態も犯している。この後、弟・直吉に水口岡山城の守備を任せて大垣城へと向かった。

9月15日の関ヶ原の戦いでは毛利秀元や吉川広家と共に南宮山[注釈 2]に布陣し合戦前には浅野幸長隊と南宮大社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。

戦場離脱後は水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟の玄春が捕らえられ、処刑されている。正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。正家は弟・直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39という。重臣6名も同日、近江日野で切腹させられた。首は京都の三条大橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという。

水口岡山城があった古城山の山頂には麓の大岡寺の奥の院である阿迦之宮が建っており、そこに正家の霊が祀られている。

なお、江戸時代に京都で両替商を営んだ長束家には正家の子孫との伝承が残る[11]。

登場作品

小説
映画
テレビドラマ
漫画
アニメ
オーディオブック

参考文献

  • 木戸雅寿「城に見る水口の中世から近世―美濃部氏城館・水口岡山城・水口城―」(『(財団法人滋賀県文化財保護協会)紀要』第22号、2009年)
  • 谷徹也「豊臣氏奉行発給文書考」(『古文書研究』82号、2016年)
  • 宮本義己「生に固執した男たち」(『歴史群像シリーズ〔戦国〕セレクション 決戦 関ヶ原』2000年)
  • 宮本義己「石田三成」(『別冊歴史読本』33巻23号、2008年)

脚注

外部リンク

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