山本安次郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
本籍静岡県。幕臣・山本金次郎の次男として生まれる[1]。1876年(明治9年)1月海軍兵学寮に機関科生徒として入校した。「扶桑」乗組みとして半年の艦上練習を行い[2][3]大試験に合格。1879年(明治12年)8月、海軍機関士副に任じられた。機関士副は当時の准士官で、兵科の少尉補に相当する[4]。同時に任じられたのは森友彦六ら7名で、山本の席次は6番である[5]。1892年(明治15年)に海軍武官制度の改正が行われ、機関科、主計科に将校相当官が設けられたことに伴い、海軍機関士補となる。同年中に少機関士(少尉相当)に進級した。「浪速」回航委員、海兵機関学教授などを歴任。
1890年(明治23年)に『海軍機関要規』と題して英国海軍機関マニュアルの翻訳を刊行した。翌年生起した日清戦争では「西京丸」機関長として黄海海戦に参戦。同船には軍令部長樺山資紀が乗船しており、「西京丸」 と同航した「赤城」艦長・坂元八郎太が戦死している。1896年(明治29年)には「八島」とともに日本海軍最初の 戦艦である「富士」回航委員に選ばれ、同じく幕臣出身である艦長三浦功を補佐して英国から日本への回航を行った。
機関大監(大佐相当)進級後は海軍中央部勤務となり、軍務局機関科長として、機関術に関する統一的な教範作成、機関科士官の海外派遣を行っている[6]。常備艦隊機関長を経て連合艦隊機関長に就任。同職は艦隊における兵科以外の機関、主計、軍医の三科のうち機関科の長で、司令部を構成する重職である。連合艦隊旗艦「三笠」に乗艦し、黄海海戦、日本海海戦に参戦。後者では負傷したが、戦闘配置に復帰し戦った[7]。戦後は海軍機関学校校長、艦政本部第四部長などを務め、機関学校長時代には『海軍機関学校生活』を刊行した。
日本海軍は日清戦争において世界で最初となる機走軍艦による戦闘を経験し、機関科の地位は徐々に高まっていた。日露戦争においては旅順港閉塞作戦実施要員に機関科員から大量の志願者を出し、実際に作戦行動に従事。また機関科士官が一部指揮権を行使するなどし、兵科より低かった機関科の地位向上につながっていく。1906年(明治39年)に機関総監は機関中将と機関少将に改められ、山本は機関少将となった。しかし機関科士官は未だ将校相当官であり、制度上将校と認められるのは1915年(大正4年)12月のことである[8]。
年譜
栄典・授章・授賞
著作
- 『海軍機関要規』
関連書籍
- 『海軍機関学校生活』

