山本封山
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寛保2年(1742年)越中国高岡に茶木屋日下庄兵衛次男として生まれた[3]。幼少時室鳩巣門人に師事し、曲直瀬道三門人に医学を学んだ[4]。
成人後京都に出て武梅竜に漢詩、吉益東洞に古医方を学び、山本巨柳に学才を認められて養子となった[4]。出身地高岡と「狐死して丘に首す」の故事に因み、高い丘を意味する封の字を用いて封山と号した[3]。
当初養父と同様西本願寺門跡文如上人に仕えたが[3]、天明6年(1786年)退職し、油小路通五条上ルの自宅に引っ越した。また京都町奉行より浪人として帯刀を許された[3]。天明8年(1788年)天明の大火に類焼し、小屋を再建した[4]。
享和3年(1804年)7月西本願寺による再勤の内命を病気を理由に断ると、御館入として用人格で遇され、土圭の間に祗候した[3]。また、加賀藩からも儒学の誘いがあり、柴野栗山にも諸藩に推挙されたが、全て断った[4]。
朝鶏鳴に起きて古書を写し、食後師弟に経学を講義し、午後回診を行い、晡時に帰宅する生活を数十年続け、文化10年(1813年)3月7日病没した[4]。
著作によって名声や仕官の口を得ようとする似而非学者を忌み嫌った。安永2年(1773年)頃から書斎を「読書室」と名付け、友人の皆川淇園に読書の楽しみを語った(淇園文集「読書室記」)[5]。親友柴野栗山が封山に贈った額字「読書室」[6]が伝わる。
金沢出身の絵師岸駒とは同じ北陸出身ということで、その子岸岱とともに親しく往来した。『医家先哲肖像集』の封山肖像図は、岸岱の描いた肖像図[6]が元となっている。