皆川淇園
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皆川春洞の第二子、長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれる。9人兄弟であった。4、5歳頃には杜甫の詩を覚えていたといわれる[3]。
伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学んだ。易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた。
宝暦9年(1759年)より京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始めた[4][5]。また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こす。
絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受けている。
晩年の文化2年(1805年)には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。 志半ばにして、翌年、74歳で没する。
門人は3,000人に及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭・田中履堂などがいる。
京極の阿弥陀寺に葬られた[6]。墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る(渡辺南岳筆、東京国立博物館 情報アーカイブ)。
