山沢静吾
日本の軍人、士官 (1846-1897)
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
薩摩国鹿児島郡、現在の鹿児島県鹿児島市[2]で、薩摩藩士・山沢十太夫の長男として生まれる。戊辰戦争に参戦し、1869年、第1大隊5番小隊長となり、同年、御親兵として上京。1871年、陸軍大尉任官。1872年、免本官となり牧畜研究のためアメリカに派遣される。1874年5月帰国し、同年10月、陸軍中佐に任官し、陸軍省出仕・陸軍生徒取締としてフランスに派遣される。1877年5月から翌年7月まで露土戦争の観戦武官として派遣され、プレヴェン包囲戦に従軍、ロシアとルーマニアから軍功賞牌が下賜される[3][4]。
歩兵第3連隊長や歩兵第1連隊長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、1885年5月、陸軍少将に昇進。歩兵第3旅団長や歩兵第10旅団長、留守歩兵第9旅団長を経て、1895年1月、陸軍中将に昇進。留守第5師団長を経て、日清戦争に第4師団長として出征した。
1895年12月、西南戦争・日清戦争の軍功を賞されて男爵を授けられる。
明治30年3月30日薨去。墓所は2017年までは青山霊園1-イ-10-1にあったが、現在は墓じまいとなり同霊園の2-イ-10付近にある立体埋蔵施設第2区に合葬されている。
ブルガリアでの顕彰
初めてブルガリアを訪れた日本人であり、プレヴェン解放の戦いに参戦し、ブルガリアのために命を懸けて戦った英雄的人物として、2023年7月にブルガス州スヴェティ・ヴラス村(en:Sveti Vlas)に顔の彫刻がほどこされた記念レリーフが設置された[5]。また、ブルガリアのロックバンドが山沢を称えた「サムライ」という曲を発表した[6]。
2025年6月には、プレヴェン近郊のヴレストヴェッ村にも軍服姿の写真入りの記念板が設置された[6]。
現地メディアによると、観戦将校としてドナウ軍司令部にいた山沢は、プレヴェンへの三度目の攻撃を前に、参謀総長ゾトフ将軍宛にフランス語で嘆願書を送り、スコベレフ将軍指揮下の第16歩兵師団の小隊長としてロシア帝国軍への入隊を申し出て参戦、負傷したが、一命を取り留めた[6]。山沢はフランス語はできたが、兵隊たちは日仏語とも解さないため、山沢は戦闘前に兵隊に向かって「(言葉は通じないから)命令はしない。私に続いて私の真似をしろ。稲妻のように速く動け。銃弾よりも銃剣を頼りにしろ」と指揮したと伝えられている[6]。
聖キュリル・メトディウス国立図書館には、山沢の戦闘部隊が戦時中に作成した報告書を含む、諜報資料集の複製が保管されており、山沢の英雄的行為に対し、ロシア皇帝アレクサンドル2世の名において聖ウラジーミル勲章第4等を、また露土戦争への参加に対して聖ジョージ・聖アンドリュー勲章とメダル、ルーマニアの「ドナウ十字勲章」を授与されたという[6]。
栄典
親族
- 父・山沢十太夫 - 薩摩藩士
- 妻:操 - 北海道士族・木村広凱の二女[12]
- 娘:橋口ヒサ(橋口勇馬陸軍少将の妻)[13][14]
- 長男:山沢幾太郞 (1875-) - 男爵を継ぐ。妻の幾枝は早川千吉郎の妹[12]。長男・静一が襲爵[15]
- 三男:伊藤鉄五郎(1887-) - 学習院初等科、中等科、高等科を経て京都大学政治学科に進み、伊藤伝右衛門の異母妹・初枝の入り婿となり、伊藤鉄五郎と称した[16][15]。大日本鑛産、山陽大理石鉱業、青島グランドホテル各取締役[17]。
- 息子:山沢乾次(1896-) - 陸軍砲兵中尉[15]
- 曽孫:タケミ・ササモリ - 2009年に東京で開かれた日本・ブルガリア外交関係再開50周年式典に山沢の曾孫として招待された[18]。