山路主住
数学者
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生涯
山路家は平重盛の後裔を称する家で、祖先の山路惣右衛門久長が御徒として召し抱えられて以来の幕臣であった[4]。主住も享保9年(1724年)、21歳の時に御徒として出仕[1]した。その後、享保18年に支配勘定となるが[1]、「勤務よろしからず」として罷免され[4]、元文4年(1739年)に小普請入りしている[1]。
寛延元年(1748年)、「補暦之御用手伝」となり[1]、天文方渋川則休・西川正休の補佐を務めて京都と江戸を往復し[1]、その後宝暦暦の修暦事業に参画した[1]。師の中根などは徳川吉宗に献策し西暦への改暦を目論んでいたが、吉宗の死去などにより改暦の主導権は朝廷に移ったため、西洋暦は取り上げられず、結果として宝暦暦は貞享暦の改変に留まった。
明和元年(1764年)、61歳の時に天文方に任じられた[3]。100俵を賜り、渋川家に次いで次席となった[3]。改暦後も息子の山路之徽や仙台藩の門人の戸板保佑らと共に西洋暦を研究し、崇禎暦書による西洋暦を完成させている。この暦は天文方の山路家・吉田家などで検証された。寛政の改暦では、麻田剛立らによる『暦象考成後編』による西洋暦の方が優れていたため、これも採用されなかった。
安永元年12月11日死去、享年69[4]。谷中の大泉寺に葬られた[1]。家は子の山路之徽が継ぎ、子孫は代々天文方に仕えた[2][3]。