有馬頼徸
江戸時代中期の大名。久留米藩第7代藩主。和算家として著名
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
正徳4年11月25日(1714年12月31日)第6代藩主・有馬則維の四男として生まれる[2]。
享保14年(1729年)、父の隠居により16歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、元文2年(1737年)までは重臣が藩政を担った。頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩で飢饉が起こる。頼徸は領民を救うため、救済金・救済米を施した。広く優れた意見を求め、徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽などの興行も奨励した。
当時、九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していた。久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず発生してしまう。頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せた。一方でこれらを慰めるために五穀神社祭礼を行なっている。