岡井慎吾

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別名 柿堂
生誕 1872年(明治5年)5月29日
日本の旗 日本 福井県丹生郡立待村(現・鯖江市
死没 1945年(昭和20年)2月13日
日本の旗 日本 神奈川県中郡大磯町
岡井 慎吾
1939年(昭和14年)撮影。
人物情報
別名 柿堂
生誕 1872年(明治5年)5月29日
日本の旗 日本 福井県丹生郡立待村(現・鯖江市
死没 1945年(昭和20年)2月13日
日本の旗 日本 神奈川県中郡大磯町
出身校 福井師範学校
配偶者 岡井わさ
学問
時代 明治・大正・昭和時代
研究分野 漢字学漢文学
主な業績 玉篇の研究
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岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日[1])は、日本の教育者漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。

1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる[2][3]

父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち[3]福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。

1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任[4]

旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導[5]を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した[4]

1922年(大正11年)、熊本医科大学予科教授に招聘され就任。

1927年(昭和2年)、『玉篇の研究』を京都大学に提出し、1931年(昭和6年)学位取得[4]

1928年(昭和3年)、第五高等学校(後の熊本大学)の講師になる[4]

1938年に広島高等師範学校(現:広島大学教育学部)の助教授に就任。

晩年は大東文化学院東洋大学東京文理科大学の講師を務め、1945年昭和20年)2月13日神奈川県大磯町の自宅にて心臓病のため死去。72歳(満74歳)歿[6]

人物・評価

  • 森鷗外の弟の森潤三郎は自著にて、鷗外が最も信頼した人間の一人として山田孝雄大矢透、そして岡井の名を挙げていた。[7]
  • 熊本市の自宅の隅に有七絶堂と名付けた書斎を設え、その書斎にて自身の文集の柿堂存稿を自費出版した[4]
  • 『玉篇の研究』は佚存書となった玉篇に関する総合的な研究論文として評価が高く、没後70年経った2010年代においてもその研究価値を評価されている[4]

著作

作詞

外部サイト

関連項目

参考文献

脚注

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