美濃国生まれという。寛永8年(1631年)、父である岡田善同の後を継ぎ、美濃国代官(後に奉行)となる。治水奉行として尾張国の御囲堤築堤の際の美濃国側の工事を指揮する。当初の陣屋は、可児郡徳野(現可児市徳野)の旧徳野藩の徳野陣屋を使用していたが、慶安3年(1650年)の洪水による木曽川の堤防工事のために、交通の便の良い羽栗郡傘町(現羽島郡笠松町)に仮陣屋を置く。これが後の笠松陣屋となる。また、このころの治水で考え出されたのが猿尾堤である。
岡田善同と同様、農民保護政策や治水事業に力を入れ、美濃国の独自の国役普請制度「濃州国法」を制定、運用する。濃州国法は、通常、治水事業に徴発される人足は、村々に一定の割合で課せられていたため農民に大きな負担となっていたのを、人足役を普請所への遠近によって人足の負担の差を認め、さらに人足負担に替えて工事資材の納入を許可した代人足制を認めたなどの制度であり、農民の負担を大幅に軽減したという。万治3年(1660年)、幕府勘定奉行となり、約10年務めている。