岡田棣
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軍艦奉行時代
文久2年(1862年)末に幕府軍艦操練所への入学を許可されるが、翌年の藩主前田斉泰上洛に従う為、軍艦操練所への入学は取りやめる。文久3年(1863年)、加賀藩に洋式兵学校の壮猶館ができることになり入学を果たし、雄次郎(棣)は航海学生となり測量・算術・造船・蒸気機関・船具運用を学んだ。この年、藩は英国から軍艦発起丸を購入した。
元治元年(1864年)、禁門の変に際し朝廷は幕府に長州征伐の勅命を下した。将軍徳川家茂の上洛に際し、発起丸は幕府に借上げられて将軍徳川家茂の上洛航海に供奉され、軍艦棟取として雄次郎(棣)・安井和介(顕比)、測量方に沢田直温(覚之助)らが乗り組んだ。同年10月から元治2年(1865年)正月まで征長の為、福井藩に初機丸を貸与。翌月松平茂昭を豊前鵜浦に送り、同年12月4日に加賀藩総大将・長連恭が大坂から安芸まで乗船。慶応元年(1865年)には征長の為、加賀藩兵を乗せて大坂まで回航した。元治元年(1864年)の将軍上洛から慶応元年(1865年)の長州出兵まで軍艦棟取を務め、慶応元年(1865年)2月には軍艦奉行となる。
同年5月には横目(目付)に、9月に先手物頭と盗賊改方を兼務した。慶応3年(1867年)12月に軍務に関する機関である内用に参興し翌年慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いが始まり藩は幕府援軍として村井長在(又兵衛)を出陣させることになりこれに従軍した。
明治維新から廃藩置県まで
海外視察
その後
明治9年(1876年)10月家扶として前田家に仕える。明治15年(1882年)病の為辞職。将棋に熱中し将棋に関する本を収集、三百種にも及び遺言により逸散しないように帝国図書館へ寄贈された。明治25年(1892年)前田公の委嘱により「維新前後に関係する者を検索蒐集するの事」に従事する。
明治30年(1897年)癌の為死去。墓所は前田家の江戸における菩提寺の、本郷区駒込蓬莱町(現在の文京区向丘)の長元寺。
長男は丈太郎、次女の三子は櫻井錠二(理学博士)に嫁ぎ、三女の貞子は池田菊苗(理学博士)に嫁ぐ。長男の岡田丈太郎は明治2年(1869年)に加賀藩の清水誠とフランス人技師のレオンス・ヴェルニーに同行しフランスへ渡る。