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東京府

かつて存在した日本の府県の一つ From Wikipedia, the free encyclopedia

東京府(とうきょうふ[1])は、かつて存在した日本府庁所在地東京市麹町区有楽町二丁目(現在の千代田区丸の内三丁目)。

廃止日 1943年昭和18年)7月1日
廃止理由 東京都制施行
東京府東京市
東京都
現在の都道府県 東京都
日本の旗 日本
概要 とうきょうふ 東京府, 廃止日 ...
とうきょうふ
東京府
東京府章
(この府章は都章に引き継がれずに都制施行と同時に廃止)
1931年(昭和6年)制定
廃止日 1943年昭和18年)7月1日
廃止理由 東京都制施行
東京府東京市
東京都
現在の都道府県 東京都
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県コード 廃止時点で制度なし
面積 2,193.96km2.
総人口 7,354,971
国勢調査1940年〈昭和15年〉)
隣接都道府県 埼玉県
千葉県
神奈川県
山梨県
静岡県(海上で隣接)
東京府庁
所在地 東京府東京市麹町区有楽町2丁目
東京府庁
東京府庁
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1868年明治元年)、武蔵国江戸に「江戸府」(えどふ[2])が設置され、程なくして「東京府」と改称される。1871年(明治4年)の廃藩置県に伴い一旦廃止され、周辺地域を含める形で改めて東京府が設置された。その後、伊豆・小笠原諸島の編入や、神奈川県からの多摩地域移管を経て境域が確定した。

1943年(昭和18年)に東京都制が施行されて東京府と東京市が統合となり、東京都に改組される形で消滅した[3][4]

東京府庁舎跡(東京都千代田区丸の内3-5)は東京都指定旧跡となっている(1955年3月28日指定)[5]

歴史

府制施行

大政奉還王政復古の翌年に始まる戊辰戦争の進展により、1868年(慶応4年)に江戸幕府の本拠地であった江戸東征大総督府の軍政下に置かれ、同年4月24日(4月2日)に江戸開府事務が始まる[6][7][8]

新政府は政体書に基づく府藩県三治制を施行し、同年7月1日(5月12日)に江戸府を置いたものの[9][10][11]上野戦争後の物情を鎮めるために同年7月8日(5月19日)に「江戸鎮台」を設置した[6][12][13][14][15][注釈 1]。 このとき諸事従来通りとしたが、寺社奉行町奉行勘定奉行については社寺裁判所・市政裁判所・民政裁判所に改め、江戸鎮台が所管した[12][13][18][14][注釈 2](南町奉行所は南市政裁判所、北町奉行所は北市政裁判所と改称[20][注釈 3])。 同年7月17日(5月27日)には江戸鎮台の官庁の名称として「鎮台府」が使われ始める[22]

同年9月3日(7月17日)の江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書[23][24]を発布し、同日に江戸府を「東京府」と改め[9][13]、鎮台府を廃止して「鎮将府(ちんしょうふ)」を置き鎮将府及び東京府の職制を定めた[25][26][27][28][29][30][注釈 4]

なお、改称当時の読みは「とうきょう」ではなく「とうけい」で、字画は「東亰」であったとも言われる。東京都公文書館によると、詔書には東京の振り仮名がなく明治初年から明治20年代頃までは「トウキョウ」とも「トウケイ」とも呼ばれた[32]

この時に、市政裁判所を廃止して東京府を置くことになったが[33]、同年9月17日(8月2日)に東京府の開庁まで市政裁判所の名目を存続させる事にした[34]。 南北市政裁判所は合併し[20]、同年10月3日(8月17日)に大和郡山藩柳沢家上屋敷を接収して東京府庁にあてた[20][35]。改装工事のため南裁判所で府庁の事務を開始し[20]、同年10月17日(9月2日)にすべての業務が南裁判所から府庁へ移された[20][35]。なお、同年10月23日(9月8日)に元号明治に改めた。

旧民政裁判所が管理していた事務については、同年11月3日(9月18日)に鎮将府会計局[注釈 5]と東京府との管理事務の範囲を定め、東京市中の各種の徴税事務は東京府がこれを管理することとし、市街地、薬物苑、植物園等すべて東京府の管理に属させ、会計局に税を納付させることになる[37]

旧社寺裁判所が管理していた事務については、同年11月4日(9月19日)に東京府内の社寺からの願伺届の提出先を鎮将府から東京府へ移した[38][注釈 6]

同年12月3日(10月19日)に鎮将府を廃止したことに伴い[45][46]、病院と医学所は東京府の支配とした[47][48][49]

武家屋敷については、同年12月28日(11月15日)に会計官営繕司から東京府へその取り扱いを移した[50][51][52][注釈 7]

しかし武家地の管轄については、明らかではなかったことから、取り締まりが行き届かなかったため、翌1869年12月4日(明治2年11月2日)に東京府下の武家地を東京府の管轄とすることになる[53][54]。 このとき戸籍調査や地方関係の事件を東京府が直接管理することになり、これまで武家地に関係する場合に事件の呼び出しは東京府から弁官を経由していたところ、東京府から達することになる[55][56]

1869年4月27日(明治2年3月16日)に、朱引内町地の人口1万人を1区として区分けしたうえ区を「番組」と名づけ、既市街地約90km2に50番組を置いた[6]。また、朱引外にも5つ番組を設置した(地方五番組)。

同年4月21日(3月10日)に、名主227名全員罷免[6]。代替として翌日に「中年寄」および「添年寄」を、同年6月17日(5月8日)に、朱引外の群政方支配所村町であった荒廃地および農村部190町89村を地方5番組に統括し各区に中年寄および「大年寄」を置き、同年7月30日(6月22日)「町年寄」を新設[6]し、東京府の準官吏として任命。名主業務を新設の各「町用取扱所」に移管させた。

同年に、府民550人を函館根室および宗谷へ移植し、翌1870年7月11日(明治3年6月12日)に、失業対策として北海道花咲郡(後の色丹郡を除く)、根室郡野付郡を領有(北海道の分領支配)したが、これは同年11月3日(10月9日)に解消した[57]

廃藩置県と地域再編

1871年(明治4年)4月、4ないし5ヶ旧町または7ないし8ヶ旧村をして1区と改めて再び区分けを行い番組を廃止。年寄職を戸長、副戸長に改める。同年7月14日廃藩置県が実施され、東京府は京都府大阪府とともに三府の一つとされた。三府は、首都あるいはその代替地とされた。

同年12月25日[58]、東京府のほか関東地方に存在していた品川県小菅県等が廃止され、旧東京府及び武蔵国豊島郡荏原郡全域、並びに多摩郡足立郡葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする東京府が改めて設置されることとなった[59](この時の範囲が後の東京市を経て現在の東京23区に概ね相当する)。

ただし、多摩郡は横浜に居留する外国人の遊歩区域に一部含まれるとの神奈川県知事陸奥宗光の上申により、1872年(明治5年)11月23日に全域が神奈川県の管轄とすることに変更された[60]

旧来の東京府の区域については、1月8日に6の大区の下に97の小区を置く「大区小区制」が敷かれた。廃止各県からの行政の移管は3ヶ月ほどかけて順次行われ、1月14日に旧品川県[61]、1月24日に旧浦和県[62]、3月3日に長浜県(世田谷飛地[63]、3月16日に旧小菅県[64]から各町村が編入された。この際、多摩郡の一部は品川県・長浜県から一旦東京府に編入されたが、3月1日に神奈川県に移管され[65]、次いで10月12日に現在の中野区、杉並区の区域が東京府の管轄に戻る[66]。これら編入された区域は旧県時代の区割りのまま呼ばれていたが、1873年3月18日に5の大区を設けて総計11大区103小区となった。

1872年(明治5年)、東京府は「戸籍法」の定めるところにより新府域に繰り込まれながらも地名の判然としなかった旧耕地に「有楽町」、「霞ヶ関」、「三田」など新町名を設定し、地券を交付した。 1878年(明治11年)1月11日静岡県から伊豆諸島を編入[67]

さらに同年11月、大区小区制を廃し「郡区町村編制法」が施行され旧府域に15区(東京15区)を置く。同時に、旧葛飾郡域に「南葛飾郡」、旧足立郡域に「南足立郡」、旧多摩郡域に「東多摩郡」をそれぞれ設置し、旧豊島郡は南豊島郡北豊島郡の南北2郡に分割され、旧荏原郡を復活させて都合6郡を設けた。このうち東多摩郡と南豊島郡は1896年4月1日に統合され豊多摩郡となった。

同年12月、第一回府会議員選挙が行われ49名が当選。第一回東京府会が開かれた。

1880年(明治13年)10月8日内務省から小笠原諸島を引継ぎ[68]、同年10月28日出張所を設置する。

東京市制施行

1889年(明治22年)5月1日市制が施行され東京府内15区が東京市となったが、市制特例により東京市長は府知事が兼務した。府知事の市長兼務は1898年(明治31年)10月1日に廃止され、松田秀雄が初代東京市長となった。

多摩地域移管

1892年(明治25年)、内海忠勝神奈川県知事富田鐵之助東京府知事は、当時は神奈川県に属していた西多摩郡南多摩郡北多摩郡の東京府への移管を井上馨内務大臣に建言した。これらの地域は現在の多摩地域世田谷区の一部にあたる。前述の通り多摩地域は当初東京府・入間県に分属していたほか、東京府への移管の議論は以前からあったもので、理由は玉川上水水利権管理及び奥多摩地域の水源確保のためとされていたが、自由民権運動が盛んだった多摩地域と現神奈川県地域とを分断するためという噂も立った。このため、神奈川県会では移管反対派乱入事件が発生した。

1893年(明治26年)2月、「s:東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律案」が可決した。多摩3郡の各首長は反対の意志を表して県知事に辞表を提出したが、3月6日に同法は公布され、同年4月1日、多摩地域は神奈川県から東京府へ編入され、ほぼ現在の東京都の境域が確定した。

東京府全図(1910年)

上記の画像では「東京」ではなく「東亰」と書かれている。

度重なる再編構想

東京府は帝都という特殊な性質上、何度も再編が俎上に載せられた。特に管理下に置きたい政府側と、自治拡大を目指す東京市側でせめぎ合いが起こった。

1896年(明治29年)、東京市を「都」に改めて官選都長を置く「東京都制案」、府郡部を県とする「武蔵県設置法案」ともに帝国議会不成立。

1897年(明治30年)、市長を公選とする「東京市制案」、府郡部を県とする「千代田県設置法案」ともに帝国議会不成立。

1903年(明治36年)、埼玉県及び山梨県を廃止して東京府に編入する内容も盛り込んだ府県廃置法律案閣議決定。日露戦争勃発により帝国議会未提出。

1917年(大正6年)7月20日警視庁が不正桝を使用していた東京および府下の米穀商を一斉捜査[69]

1923年(大正12年)、鳩山一郎が中心となり東京府を廃止し東京市及び周辺五郡(いわゆる大東京)に東京都を設置(都長は公選)、三多摩を神奈川県に移管する「帝都制案」が帝国議会に提出されるも、これも廃案となる。

関東大震災

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災発生により、東京市を中心に甚大な被害を受ける。9月8日、報知新聞が「大阪遷都論沸く」と報じる。こうした中、9月12日に大正天皇詔書を布告し、その中では次のように述べられ[70]、大阪への遷都(又は奠都)を明確に否定した。一方で、この時期の東京府東京市は、人口では大阪府大阪市を下回っていた上に、大阪市そのものもこの数年後に大大阪時代を迎えたことで、東京府の求心力は一時低下してしまうこととなった。

抑モ東京ハ帝國ノ首都ニシテ政治經濟ノ樞軸トナリ國民文化ノ源泉トナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ舊形ヲ留メスト雖依然トシテ我國都タルノ地位ヲ失ハス

(そもそも東京は帝国の首都にして、政治経済の枢軸となり、国民文化の源泉となり、一朝不慮の災害に罹りて、今やその旧形を留めずといえども、依然として我国の都たるの地位を失わず)

※引用註:()内は新字・現代仮名遣いに改め、句読点を補ったもの大正天皇、官報号外第12号(大正12年9月12日)[70]

都制施行

日本が日中戦争に突入すると戦時体制構築のため、政府は東京府地域の政治・経済の統制強化を要求するようになった。1938年(昭和13年)6月、内務省は「東京都制案要綱」を発表したが東京市35区は内務省案反対を決議した[要出典]が、1943年1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決、同年7月1日、東京府庁の中に東京市役所がある二重行政を解消する旨が記載の東京都制により「東京府」と「東京市」が廃止され統合する形で現在の「東京都東京都庁」が設置された。

この結果、旧東京市域は35区体制のままで東京都35区へと移行することとなった。一方、東京府下で市制を施行していた東京府八王子市と同立川市(いずれも多摩地域)は、それぞれ東京都八王子市と同立川市となった。なお、この時点での東京府の自治体は、町や村の方が圧倒的に多く、市制を施行していた自治体は、東京市・八王子市・立川市の、合計3市のみであった。

政治

行政

東京府庁(東京市役所との合同庁舎)

東京府の府庁舎は、1868年(慶応4年)の開庁時には江戸城幸橋門内(現在の千代田区内幸町1丁目)の大和郡山藩上屋敷を接収して使用した。1894年(明治27年)、麹町区有楽町に新庁舎が完成したため移転した。第二次世界大戦(太平洋戦争)後、新庁舎は東京都庁丸の内庁舎として引き継がれたが、旧建物は戦災で焼失している。

東京府知事

東京府会

選挙

議員

産業

農事試験場と種畜場は東京都農林総合研究センターの、東京商工奨励館と染織試験場は東京都立産業技術研究センターの前身に当たる。

  • 東京府立農事試験場
    • 江戸川分場
  • 東京府立種畜場
    • 浅川分場
    • 戸倉分場
    • 三宅分場
  • 府立東京商工奨励館
  • 東京府立染織試験場

教育

府立学校

高等学校・専門学校

以下の高等学校専門学校は、都制施行と学制改革を経て、1949年に発足した新制東京都立大学へ包括された[注釈 8]

師範学校等

以下の師範学校等は、第二次師範教育令による官立移管と学制改革などを経て、1949年に新制東京学芸大学へ移行した。

中学校・高等女学校

実業学校

図書館・博物館

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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Timelines

Top Qs

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