岡田貞三郎
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群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に生まれる[1][2][3]。県立伊勢崎工業学校を卒業後[1][2][4]、天田製薬所に入る[2]。
1917年(大正6年)講談社に入社[5][4]。雑誌『講談倶楽部』に配属され、1928年(昭和3年)からは編集主任(編集長)となる[4]。岡田は岡本綺堂、長田幹彦、中村武羅夫(ペンネームは藤沢草人)らの作家を訪問して原稿の依頼をとりつけ、部数向上に貢献した[6]。1929年(昭和4年)の『講談倶楽部』新年号は岡田の発案による付録「全国金満家番付」をつけ部数35万部を達成する[7][4]。江戸川乱歩を起用し、同年8月号から連載開始された『蜘蛛男』は人気となり、その後『魔術師』『恐怖王』『人間豹』と明智小五郎が活躍する連載が続き雑誌の人気を支えた[8][4]。大佛次郎、白井喬二、三上於菟吉といった人気作家の原稿を取るのに苦労した一方、三上の「修羅道春秋」の途中回を抜かして掲載するという編集部のミスにより編集責任者として三上に謝罪もした[9]。吉川英治は『講談倶楽部』1914年(大正3年)10月秋期増刊号に吉川雉子郎の名で懸賞小説「江の島物語」が掲載されたのが最初の活字化で、岡田のことを「着実に隣国を掠めとってのち、おもむろに上洛の機会をねらわれる」「武田流の軍学」と評している[10]。
右眼は生まれつき失明しており、左眼の視力も生来弱かった[11]。さらに眼疾が進行し途中からほぼ盲目となったが、編集部員に原稿を代読させることによって1941年(昭和16年)まで主任を務めた[12][4]。1945年(昭和20年)に講談社を退社[2]。
1971年(昭和46年)、大衆文学研究家の真鍋元之の聞き書きによる『大衆文学夜話』を刊行、翌年、76歳で亡くなった[4]。
著作
脚注
- 1 2 3 『大衆文学夜話』pp.30-34
- 1 2 3 4 5 6 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、113頁。doi:10.11501/12189010。 (
要登録) - 1 2 「岡田 貞三郎」『日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)』。https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E7%94%B0%20%E8%B2%9E%E4%B8%89%E9%83%8E。コトバンクより2022年9月16日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 大村彦次郎 著「岡田貞三郎」、寺田博 編『時代を創った編集者101』新書館、2003年8月25日、80-81頁。ISBN 4-403-25072-6。
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.34-37
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.42-63
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.148-153
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.162-166
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.181-187
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.225-229
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.284-286
- ↑ 『大衆文学夜話』pp.296-302