長田幹彦
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1887年、東京府麹町区飯田町に生まれる[3][4]。兄は劇作家の長田秀雄[3]。1904年(明治37年)3月に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属高等学校)を卒業する。中学時代から兄秀雄の影響で新詩社の『明星』に参加するが、後に脱退して1909年(明治42年)頃から『スバル』に同人として参加、詩作を投稿した[3][5][6][7]。早稲田大学在学中に北海道に渡り、炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪した。1911年(明治44年)から翌年にかけてその時の体験を基にした小説「澪」「零落」を『中央公論』に発表して高い評価を受け人気作家となった[3][5]。1912年(明治45年)に早稲田大学英文科を卒業する[2]。55歳で国学院大学に入学して神道を学んだ。[要出典]
1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて「霧」「扇昇の話」「自殺者の手記」を発表する[2]。これらの作品で当時新進の谷崎潤一郎とともに耽美的作風を併称され[2]、「幹彦潤一郎」と並び称された。1912年夏、谷崎が京都に遊んだ際には連れ立って遊興したが、次第に関係が悪化し、以後、両者の交遊は疎になる。
祇園滞在時の知見を基に、そこの情緒や舞妓たちの宿命を「祇園」「鴨川情話」「祇園情話」として発表する[5]。これらの花柳の巷を舞台とする「祇園もの」でも情話作家として人気を博し、吉井勇と併称されたが、1916年(大正5年)、赤木桁平から「遊蕩文学」として攻撃された。以降も約300の長編と約600の短編に亘る多量の作品を書いたが、次第に文壇の最前線からは遠ざかった[2][3]。長田の作品は全集としても刊行された[4]。
1918年(大正6年)から1922年(大正11年)にかけて、尾崎紅葉の「金色夜叉」の続編として「続金色夜叉」「金色夜叉終編」を発表する。北海道置戸に訪れた長田は大自然と開墾途上の風景に感動しその実体験から作品を書き上げた。物語は、失恋や金銭欲を乗り越えて、大自然の中で開拓に挑む貫一の夢と、彼を巡る友情と再会を描く。廃駅となった置戸駅跡ぽっぽ(現在 置戸ぽっぽ絵画館)には、貫一とお宮「再会の松」と「再会の像」があり、物語で貫一が開設した”興農園”の場所(現在 鹿ノ子ダム)に建てられた続金色夜叉記念碑には長田の言葉が刻まれている。
1925年(大正14年)にラジオ放送が開始されると、ラジオドラマの創造を補佐するため、小山内薫や久保田万太郎などと伴に「ラジオドラマ研究会」を東京放送局内に設置した。長田はその中心となり脚本の懸賞公募、声優の育成に努めるとともに、自身でも専用の脚本を文芸顧問として執筆した[4][8]。昭和に入ると日本ビクター顧問として専属の作詞家となり、「祇園小唄」「島の娘」「天竜下れば」などの多数の作詞を手掛けた[2][3][9]。
1941年(昭和16年)8月、内閣情報局が行った大量発禁処分では、長田の小説も「風俗壊乱の恐れ」のある一つとして槍玉にあがった(具体的な発禁対象小説名は秘匿された)[10]。
第二次世界大戦後は「青春時代」等の回想記や通俗小説などを発表しつつ心霊学にも関心を持ち[3]、「超心理現象研究会」を主宰していた[4]。1952年には『幽霊インタビュー』を刊行している[11]。1964年5月6日に東京で死去した[2]。