武田氏親類衆・岩手信盛の嫡男として生まれ、父同様に旗奉行として武田氏に仕えた。
『甲陽軍鑑』所載の「惣人数」には「御旗奉行」として「岩手右衛門佐父子」と記載され、『軍鑑』伝解本の同箇所には「子息助市郎ワカキ故春日左衛門
ヲ添ラルゝ」とあるが、助市郎は嫡男・信重の仮名である[4]ことから、「右衛門佐父子」は信景・信重父子に比定されており、嫡男・信景は春日左衛門[注釈 1]の補佐を受けたとみられる。
元亀2年(1571年)9月10日には「右衛門大夫」の官途名で見え、天正元年に父・信盛が隠居すると家督を相続し、翌年9月11日には勝頼から嫡男・信重(左馬頭)と共に代替わりの安堵を受けている。
天正8年(1580年)8月に信盛院(山梨県山梨市)と門前五軒の棟別と岩手郷の諸役が武田家印判状によって免除され、翌年3月には岩手氏の領内にある信盛院(山梨県山梨市)に所領十貫百文を寺領として寄進しており、天正10年(1582年)には曹洞宗寺院・金光寺(山梨県山梨市東)を開創している。
同年の武田氏滅亡の際に織田信長の命令によって甲斐国南山で自害した[7]。忌日は4月1日と伝えられている。
嫡男・信重は生き残って徳川氏に仕え、後に玄道斎と号した。その子孫は存続している[8]。