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岩手信盛

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岩手 信盛(いわで のぶもり)は、戦国時代の武将。武田氏庶流岩手氏の一族。武田信虎の従兄弟とされる。

生誕 不明
死没 天正11年1月26日(1583年2月18日)[1](6月26日とも)
改名 信勝?→信盛
概要 凡例岩手 信盛, 時代 ...
 
岩手 信盛
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正11年1月26日(1583年2月18日)[1](6月26日とも)
改名 信勝?→信盛
戒名 信盛院殿宥山道雲庵主[2]
墓所 岩松山信盛院(山梨県山梨市)
官位 蔵人佐?→能登守
主君 武田信虎→武田信玄→勝頼→徳川家康
氏族 岩手氏(武田氏)
父母 父:岩手縄美(異説あり)
子 信景、一信?、信政
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生涯

岩手氏は武田信昌の三男・縄美に始まる一族で、甲斐国山梨郡岩手郷(現・山梨県山梨市)を本領とし、武田氏当主・武田信虎に反旗を翻した同母兄の油川信恵と行動を共にして永正5年(1508年)10月の勝山合戦で信虎方に大敗し、信恵ともども討死しているが、岩手氏自体は油川氏同様に武田氏親類衆として存続を許された。

出自については、岩手氏の系図類[注釈 1]に基づき縄美の嫡男とするのが通説である。幼少であったために助命され、大永元年(1521年)に信虎によってその所領を認められたとされる[3]。一方で、成立の早い『寛永諸家系図伝』では父についての記載がなく、また武田氏の系図類[注釈 2]では縄美の子を信勝(治部少輔)と信行(善九郎)の2人のみとし、信盛の名前は見えない。信勝は信盛の前名で当初は武田蔵人佐を称したとする所伝もある[2][1]が、系図は混乱が多く鵜呑みに出来ないとして信盛を縄美の孫と推定する研究者もいる[注釈 3]。

永禄5年(1562年)に叔応文伯を開山として迎えて、岩手氏の菩提寺として曹洞宗の岩松山信盛院(山梨県山梨市)を開基し、自身の所領から寺領を寄進しているのが確かな史料における初見[6]。

武田氏の下では旗奉行を務め、「武田信玄本陣陣立書」には岩手能登守が「代々之旗」を統活するとみられる記載があり[7]、永禄12年(1569年)には一軍を指揮して混白の幕・金色の采配の使用を許可されている[6]。また長沼城 (信濃国)に在番し、元亀2年(1571年)には信濃国境目の商人の出入りを制限するよう命令を受けている[6]。

天正元年(1573年)1月29日に嫡男・信景とその子・信重に本領岩手郷と信濃国や駿河国の所領を譲り渡していることから、この頃に隠居したものとみられる[6]。天正4年(1576年)1月には勝頼の命を受けて来たる出陣の際の城在番について伝えるため、春日虎綱の下へ使者として派遣されている。

武田氏滅亡後の天正10年(1582年)8月21日、徳川家康から甲斐国岩手郷二百貫文の所領安堵を受けた。この時「岩手入道」として見え[6]、また同日付の天正壬午起請文には次男・信政が「岩手助九郎」として名前が見えることから、父子で徳川氏に出仕したことが確認出来る。

天正11年(1583年)1月26日、甲斐国で死去。本領の半分が次男・信政に宛行われ、家康によって安堵を受けた[1]。

家族

嫡男・信景(右衛門尉、右衛門大夫)は信盛同様に旗奉行として武田氏に仕え、信盛隠居後に家督を継承したが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡の際に織田信長の命令によって甲斐国南山で誅殺された[8]。信景の子・信重は生き残り、子孫は存続している[9]。

次男・一信(佐五右衛門)は旗本として江戸幕府に仕えた。その嫡男・信次の系統は断絶したが、二男・信定の系統は存続し、次代の信就の時に岩出に改姓している。なお、『寛政重修諸家譜』所載の信定の子孫が提出した系図では一信は信景の子となっている[10]。

三男・信政(助九郎、九左衛門)は武田氏滅亡後は処士となり、伊勢国で織田信孝に仕官したが、その後織田家を辞して戸田忠次を経て徳川家康に仕えた。慶長12年(1607年)に徳川頼宣に附属させられ、元和10年(1624年)1月28日に病死した。享年60。直系子孫は紀州藩士として存続し、傍系は御家人として召し出されている[1]。

脚注

参考文献

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