武田信昌の三男[注釈 1]。母は小山田信長の姉妹であり、武田信縄は異母兄、油川信恵は同母兄にあたる。
「縄美」という諱は系図類に所見されるもので、『武田源氏一流系図』は読みを「つなよし」としている。しかしながら年未詳11月14日付「縄満」発給の過書[6]は縄美の発給の文書であるとも考えられているため、正しい諱は「縄満」で読みは「つなみつ」である可能性が高いと指摘されている。
明応元年(1492年)に甲斐守護の地位を巡って父・信昌と兄・信恵が異母兄・信縄と抗争を起こした際には、信昌・信恵方に与して信縄方と戦ったが、明応4年(1495年)8月の明応の大地震を契機に双方は和睦。
永正元年(1504年)に父・信昌から所領として甲斐国山梨郡岩手郷(現・山梨県山梨市)を与えられ岩手氏と称し、「東武田殿」と呼ばれたという。翌2年(1505年)に父・信昌が死去した後は、信縄から旧領を受けていることからその支配下に入ったことが確認出来る。
また、大石神社(山梨県山梨市西)の由緒によれば、永正4年(1507年)4月9日に同社を創建して弓矢を奉納したと伝えられている[7]。
永正4年(1507年)に長兄・信縄が死去し、甥(信縄の嫡男)の信虎が若年にして武田家当主となると、兄・油川信恵と共に信虎に対して叛旗を翻したが、永正5年(1508年)10月4日に勝山合戦で信虎方と交戦するも大敗し、信恵やその一族等と共に戦死した[8]。
岩手氏は存続を許されて嫡男・信盛が家督を継承したとされるが、研究者からは信盛を縄美の孫と推定する見解も出されている(詳細)。武田氏の系図類[注釈 2]では縄美の子として信勝(治部少輔)、信行(善九郎)が見えるが、いずれも確かな史料で実在は確定出来ない。信勝は信盛の前名とする所伝もある[10]。