岩波律子
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青年期
1950年(昭和25年)、岩波律子は東京都に生まれた[1][2]。岩波家は岩波書店の創業者の家系であり、父親は岩波書店社長の岩波雄二郎である[3][2]。1975年(昭和50年)には学習院大学大学院仏文科修士課程を修了。1976年(昭和51年)から1978年(昭和53年)までフランス・パリに留学した[4]。パリ商工会議所が設置した高等秘書養成センター(CPSS、現・パリ・ノバンンシア経営大学院)を卒業し、フランス国立東洋言語文化学院日本部門修士課程を修了した[2]。東洋言語文化学院では「日本における婦人雑誌」というテーマのフランス語論文を執筆している[5]。
1977年(昭和52年)5月には、神田神保町の岩波ホールでエキプ・ド・シネマ運動を行っていた叔母の高野悦子が、初めてカンヌ国際映画祭に正式参加した[4]。岩波も高野に誘われてカンヌを訪れており、このことが映画の世界に足を踏み入れるきっかけとなった[4]。留学先のパリでは多忙だったため、映画館で映画を観ることはあまりなかったという[5]。
岩波ホール入社後

岩波は1978年(昭和53年)に日本に帰国すると、高野が支配人を務める岩波ホールでアルバイトを務めた後、1979年(昭和54年)春に岩波ホールの正式な社員となった[4]。当時について岩波は「私がフランスに留学した後、ぶらぶらしていたら、高野悦子からちょっと来ないといわれて入社した」と語っている[6]。岩波ホールは父の岩波雄二郎が自費で建てたビルに開館させたホールである[7]。
まずは外国部兼プログラム編集の仕事を任され、上映作品のパンフレットや機関誌『友 Iwanami Hall』の編集、他国との折衝や訪日外国人の接待などを担当した[4]。岩波ホールが独自に配給する作品では仕事が多く、『エミタイ』(1984年)を監督したセンベーヌ・ウスマンが訪日した際には通訳も担当し[4]、日光の社寺の観光案内をしたこともあった[8]。岩波が岩波ホールに入社した頃、社員の構成は正社員が10人であり、嘱託社員やアルバイトを含めても30人という小規模な組織だった[4]。
岩波ホール支配人
その後は宣伝部と編集部を経て[2]、1990年(平成2年)には岩波ホールの支配人に就任した[9]。岩波は高野らとともにエキプ・ド・シネマ運動を推進し、『宋家の三姉妹』(1997年)や『山の郵便配達』(1999年)などの名作の上映に携わった[3]。エキプ・ド・シネマ運動は、サタジット・レイ、イングマール・ベルイマン、アンジェイ・ワイダ、エルマンノ・オルミ、マノエル・ド・オリヴェイラ、アラン・レネ、黒木和雄、羽田澄子などの監督の発掘にも貢献した[10]。
2013年(平成25年)2月9日に高野が死去した際には喪主を務めた[11][12]。高野の死後には高野の仕事を引き継いだが、高野が背負っていた「総支配人」という肩書ではなく、それまでの「支配人」という肩書を継続している。2014年(平成26年)にポーランド・クラクフの日本美術技術博物館「マンガ」館で高野悦子展が開催された際には、岩波が日本美術技術博物館を訪れてアンジェイ・ワイダ監督と対面した[13]。日本美術技術博物館はワイダ監督の発案で開館した博物館であり、建設に際して募金活動の窓口を引き受けたのが高野と岩波ホールだった。
2018年(平成30年)に岩波が受けたインタビューでは、とりわけ忘れがたい映画監督としてセンベーヌ・ウスマン監督を挙げており、「気難しいコワイおじさまで。といっても、差別に厳しい、信念の方」「監督の作品には女性への信頼と尊敬があふれています。その背景に、お母様への深い尊敬の思いがおありだった」と評している[14]。
岩波ホールの閉館
2020年(令和2年)以後には新型コロナウイルス感染症の世界的流行が起こり、岩波ホールは長期休館を余儀なくされるなどして経営状態が悪化、2022年(令和4年)7月29日をもって閉館した[15]。同年1月に閉館を発表してからは、映画上映と並行し、種々の閉館業務に奔走。7月29日の最終上映回の前には、自ら満員の客席に向かって舞台挨拶をした[15]。岩波ホールのパンフレット、ポスター、広報誌『友』などの貴重な資料は、国立映画アーカイブ図書室、このほか東京や地方の図書館や資料館に収蔵される[16]。2023年3月、岩波と劇場スタッフに対し、日本映画ペンクラブ賞が贈られた[17]。