1901年(明治34年)10月22日、埼玉県入間郡川越町相生町に生まれる[1]。川越尋常高等小学校卒業後、母型製造業者の堀活版母型製造所(東京市京橋区木挽町)に徒弟として入って[1]、活字彫師となった。
大手新聞社の自動鋳造機導入で母型需要が高まったことを受けて[3]1920年、岩田活版母型製造所(東京市京橋区木挽町)を創業し、活字母型の製造販売を開始[1]。関東大震災(1923年)で東京市滝之川区西ヶ原を経て東京市大森区新井宿に工場を移転した[1]。
活字メーカーで印刷業者でもあった秀英舎(現・大日本印刷)の9ポイント明朝活字のふところをさらって細字化する作業を活字メーカーの晃文堂(のちリョービイマジクス)の下請けで手がけたほか[3]、大間善次郎ら直彫りの名人として知られた彫師を雇い、新聞社など顧客側の彫師が彫った種字を受け取ってそれを修正しながら母型を製造し納入した[3]。
特にモリサワが1970年代以降に写植盤やデジタルフォントとして提供した明朝体「リュウミン」で知られている戦前の活字メーカー、森川龍文堂(大阪市南区安堂寺町)の経営者、森川健市(のち岩田母型製造所大阪支店長、大阪岩田母型社長)とは生涯の盟友で[4]、森川がデザイン・制作した種字を岩田が母型化して森川に納める強い提携関係を持っていた。
1941年には朝日新聞社が新聞連盟に提案し、森川が原字制作、岩田活版母型の大間が地金彫りをして製造した初の「新聞用扁平活字」の母型を東京、大阪の大手新聞計4社に納入[5]。扁平書体は以後、現代に至るまでの国内新聞社の本文書体のスタンダードとなった。
戦時末期に森川龍文堂は、当局に外地で用いるとして、設備や保有する岩田製活字母型の大半を無償に近い形で供出強要されたことから、事業継続が不可能になって廃業したものの、なおも森川は、東京大空襲で被災して事業停止状態になった東京の岩田に出資するなどして復興を支援。岩田活版母型は1947年に岩田母型製造所株式会社として法人化し、大田区新井宿に移転した[1]。
1950年には当時営業部の新人社員であった高内一の進言を受けてベントン母型彫刻機の導入を実施し、自社オリジナル書体の開発に踏み切った。岩田は当初大間に原字版下を作らせようとしたが、直彫職人たちの反発を受け協力を得られなかったため、やむなく高内本人を版下製作担当者に命じ[6]、高内は岩田の指導のもと、小サイズは秀英体、大サイズは築地体を元に6ポイントから初号(42ポイント)までの各サイズのベントン用の明朝体、ゴシック体を翻刻デザイン[7][8]。これによって製造販売された母型は、岩田書体として広く普及した。
また1953年には森川を支店長に岩田母型製造所大阪支店を立ち上げ、大手の新聞社や印刷会社におけるモノタイプ(自動鋳造植字機)導入に伴う母型需要の急増を背景に、モトヤ商店(現・株式会社モトヤ)や日本活字工業、大阪活版工業など当時の国内有力活字メーカーが集中する関西地区でのシェア拡大に取り組んだ[1]。1955年ごろには、自社および外注先保有分を含めた供用可能なベントン彫刻機台数が約50台と、モノタイプメーカー並みの生産体制を持ち[9]、1957年にはモトヤ商店と既存活字メーカー同士の先陣を争う形で、ベントン母型並みの耐久性を持ち安価な市販向け和文パンチ母型の発売を開始した[10][11]。
しかし1960年代に入ると、写真植字の普及に伴う活字需要の急速な衰退で取引先企業の倒産が相次ぐ中、製造設備への投資が経営を圧迫し、1968年2月に5億円の負債を抱えて倒産し任意整理に入った。前後して営業所を分社するとともに不動産処分で債務弁済を行った上[12]、同年8月に高内が社長を務める岩田母型工業株式会社を設立して岩田母型製造所の事業を移管[13]。岩田は一線を退いた。