岸連山
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文化元年、青木新助の子として京に生まれる。岸駒、岸良に師事する。岸駒の長女で岸良の妻・貞の先婿との娘・晴(春)と結婚、婿養子となり第三代岸派を継承した。文政6年(1823年)以降は父祖と同様、有栖川宮家に仕えた。安政2年(1855年)京都御所障壁画制作では、御常御殿申口之間、御学問所雁之間・迎春南之間などを担当し、岸派の中では二代目の岸岱に次ぐ大きな仕事をしており、岸派の三代目に位置していたことが窺える。他に光明寺や島原角屋、岸派とのゆかりが深い京都市北区天寧寺などに、作品の所蔵が確認されている。
中島来章・横山清暉・塩川文麟らと共に、幕末画壇の「平安四名家」と評された。画風初期は、装飾的な画風を特徴としたが、晩年は四条派の影響を受け、身近な花鳥や鳥獣を、淡彩を生かしつつ墨を駆使して描く温和な画風に変化した。連山は、岸駒の個性的表現から近代的な写生技法へ転換し、次代の竹堂へと続く岸派の近代化の契機となった絵師といえる。
墓所は上京区の本禅寺。連山には九岳という息子がいたが後継者には選ばず、娘素子を弟子の岸竹堂と結婚させて跡を継がせた。他の弟子に、巨勢小石、森春岳など。
門人
代表作
| 作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・落款 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 相国寺塔頭長得院障壁画[2] | 紙本墨画・板絵著色 | 襖48面・杉戸絵4面 | 長得院 | 内訳は「山水図」襖12面、「波濤鷲図」襖12面、「水辺虎図」襖12面、「花鳥図」襖6面・小襖6面、「雪中柳に鴉図」杉戸4面。 | |||
| 無学寺本堂障壁画 | 無学寺 | 1832年(天保3年) | |||||
| 西園雅集図 | 紙本墨画淡彩 | 12幅 | 永平寺 | 1838年(天保9年) | 款記「天保九戊戌初冬 連山岸文進寫」 「萬象楼」朱文方印・「岸徳氏」白文方印 |
元は襖絵で旧大光明蔵の障壁画[3]。 | |
| 隆国寺障壁画 | 隆国寺 | 1846年(弘化3年)秋 | 岸岱と共作で、連山は全36面の内20面を担当。内訳は「芦翔図」紙本著色 襖4面、「虎渓三笑図」紙本淡彩 襖2面、「老松孔雀図」紙本著色 襖4面、「芙蓉双鶴図」紙本著色 襖4面、「芦群鶴図」紙本著色 襖4面、「桜孔雀図」紙本著色 襖2面。兵庫県指定文化財[4]。 | ||||
| 龍虎図屏風[5] | 紙本著色 | 六曲一双 | 154.2x350.2 | 滋賀県立近代美術館 | 1849年(嘉永2年) | ||
| 雪中群猿図屏風 | 紙本著色 | 六曲一隻 | ミネアポリス美術館 | 1853年(嘉永6年) | |||
| 山水人物図・海に稚松図 | 紙本墨画 | 襖4面裏表 | 光明寺 | 1856年(安政3年) | |||
| 花鳥図屏風 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 山種美術館 | 1869年(明治2年) | |||
| 花鳥図屏風 | 紙本墨画 | 六曲一双 | 無学寺(上京区) | 款記「三十世福海 連山岸徳」 「岸文進」白文方印・「士道」朱文方印[6] |
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| 山水図障壁画 | 春光院 | ||||||
| 花卉図天井画 | 善願寺(伏見区) | ||||||
| 桐に鳳凰図 | 紙本金地著色 | 襖3面 | 角屋 | 款記「連山岸文進」 | |||
| 群雀図 | 絹本淡彩 | 1幅 | 京都市美術館 | ||||
| 蝶々踊図屏風 | 二曲一隻 | 国立歴史民俗博物館 | |||||
| 猪図[7] | 1幅 | 89.4x147.0 | 東京国立博物館 | ||||
| 野菜涅槃図 | 著色 | 個人[8] | |||||
| 鷹図[9] | 絹本著色 | 1幅 | 115.7x44.1 | シンシナティ美術館 | |||