横山清暉
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京都出身。名は清暉または暉三、字は成文、通称は主馬・詳介、号は霞城、吾岳、奇文。初め江村春甫から手ほどきを受け、ついで呉春、松村景文に学んだ。景文没後の誓約書では筆頭に署名があり、景文の一番弟子だったと目される。文政3年(1820年)華道の家元・池坊専定が、自ら選んだ生花100瓶の画集『挿花百規』の挿絵を景文と共に担当している。文政度の東本願寺再建においては白書院の杉戸絵を担当、文政12年(1829年)には祇園祭長刀鉾の軒下絵《百鳥図》の彩色を任された。こうした働きが認められてか、青蓮院尊超入道親王のお抱え絵師となる。幕末期には平安四名家と謳われ、画壇の取りまとめ役として様々な書画展館に際して主催者の重責を担った。『平安人物志』では文政13年(1830年)から嘉永5年(1852年)版まで登場。住所は六角室町東、新町四条北。生前の評価は非常に高く、嘉永3年(1850年)の『帝京画家給銀位定』では970両の<大上上吉>、『平安画家評判記』では980両の<極上上吉>と岸岱、狩野永岳に次いで第3位にランクされ、「四条派の総親玉」記されている。ただ、晩年の作品には衰えが目立つとされている。享年73。戒名は蓮華院清輝日妙居士。墓所は『京都名家墳墓録』によると、東山区の安養寺と左京区の本妙寺、中京区の天性寺の3つが記載されている。安養寺の墓は、一周忌に弟子の村瀬双石と加納黄文が建立したものである。