峰国安

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1940-10-18) 1940年10月18日(85歳)
身長
体重
175 cm
81 kg
峰 国安
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県西彼杵郡野母崎町
生年月日 (1940-10-18) 1940年10月18日(85歳)
身長
体重
175 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1959年
初出場 1959年
最終出場 1968年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 大洋ホエールズ (1975 - 1976)

峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日[1][2] - )は、長崎県西彼杵郡野母崎町出身の元プロ野球選手投手)・コーチ

幼少期の1945年8月9日、たまたま塀に登って眺めていた「夕日のような景色」は、長崎市内に投下された原子爆弾であった[3]

戦後は海に沈む鉄クズを拾っては換金し、軍艦島にも上り、コンクリートだらけの廃墟草木が一つもない異様な光景を目の当たりにした[3]

実家は漁師で、船乗りであった父を手伝いながら野球に没頭し、中学時代は駐留軍の米兵と草野球をしたこともあった[3]

海星高校では無敵のエースに成長し[3]、2年次の1957年夏の県大会で優勝するが、西九州大会1回戦で敗れる。3年次の1958年は準決勝へ進出するが、西海学園に延長11回サヨナラ負けで甲子園出場を逃す。

高校で兄から「井の中の蛙」と揶揄されながらも大洋ホエールズから声がかかり、高津高校の定時制に通いながら、1959年に入団[3]

1960年には4月10日中日戦(川崎)で初勝利を挙げ、球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献。その後も主にリリーフとして起用され、1962年には一軍出場ゼロに終わったが、1964年には自己最多の45試合に登板して5勝を挙げた。1969年引退。

引退後は読売ジャイアンツ打撃投手1970年 - 1974年)を務め、王貞治の専属打撃投手として知られていた。最初は「球界の宝にボールを当て怪我させるのが怖い」という者もいたが、対戦してきた意地から峰が引き受けた[3]

巨人退団後は秋山登監督の熱意ある説得を受け、二軍投手コーチ(1975年)として古巣・大洋に復帰[4]

熱心な指導方法が球団にも評価され、1976年には一軍投手コーチ補佐に昇格[4]。主に若手選手の状態を藤田元司コーチに正確に伝達するための繋ぎ役に徹したが、大洋は首位巨人に33ゲームを付けられての最下位に終わり、低迷の責任を取る形で秋山は二軍監督に降格[4]。後任監督には現役時代から性格的に合わない別当薫[4]が就任したため、潔く退団[5]

退団後は妻が川崎市中原区新丸子町スナックを経営していたため、地元で一つやってみようと思い[5]武蔵新城駅前でスナック「峰」を開業[3]

開業前はリンゴの皮さえ剥いたことがなかったため、他の店に修行に行き、焼きうどんから揚げの作り方を習った[5]

店のメニューには九州を思わせる焼酎皿うどんなど郷土色のある料理も多く、客が込んでくれば、峰もソファーに座って話し相手になったりした[5]

詳細情報

脚注

関連項目

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