若くして大学寮に入学し経書と史書を広く学ぶ[2]。文章生試に及第したのち、大学少属・大宰少典・内蔵少属を歴任。この間、弘仁4年(813年)には多人長による『日本書紀』の講書を受けた一人として名を連ねている[3]。弘仁14年(823年)朝臣姓に改姓する。
淳和朝に入ると少外記次いで大外記を務める傍ら、勘解由判官・下野権掾を兼帯、天長6年(829年)には従五位下に昇叙された。またこの間、『日本後紀』の編纂にも参画している。仁明朝では大外記・宮内少輔・治部少輔・伊賀守を歴任した。文徳朝の仁寿元年(851年)従五位上に至る。
斉衡2年(855年)9月18日卒去。享年77。最終官位は散位従五位上。