島田牙城
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1957年2月9日、京都市岡崎に産まれ、すぐ京都市郊外の乙訓郡向日町大字鶏冠井小字大極殿(現、向日市鶏冠井町大極殿)に移住。本名は尋郎(ひろお)。向陽幼稚園(西山浄土宗総本山光明寺が母体の私立)、向陽小学校(町立)を経て、高槻中学校・高等学校(私立)、二浪ののち、1977年、関西大学文学部哲学科へ進学。1981年、関西大学中退[4]。
1973年、高校2年の冬より俳句を書き始め[5]、波多野爽波に師事、爽波主宰の月刊俳句誌「青」に投句。また、1974年、同級生らと「童(がき)俳句集団」を結成[6]。1977年、「がきの会」と改称し、俳句同人誌「東雲」を創刊。がきの会には、田中裕明、上田青蛙、小豆澤裕子らの他、一時的には、中田剛、武藤尚樹、中里夏彦らが在籍、また、波多野爽波を名誉会長、茨木和生を名誉会員として迎え、毎号俳句の寄稿を得ている。(1980年1月の9号まで続く)。
1979年秋、「青」三百号を期に、田中裕明、上田青蛙とともに、はりまだいすけ、山本洋子、原田暹より、編集を引き継ぎ、編集長に就任。1980年、角川俳句賞最終候補。同年暮、爽波との意見対立により編集長を辞任し、「青」退会[7]。
1981年、就職のため東京へ転居、宇佐美魚目の助言により石寒太に会い、同人誌「無門」に参加。今井聖、筑紫磐井、正木ゆう子らを知る。また、その後夭折した安土多架志(高槻高校の先輩)を知る。「無門」はその後寒太主宰誌「炎環」となり、一時、編集長となるが、作句意欲の衰えにより、自然退会。1996年、今井聖の誘いを受け、聖主宰誌「街」の創刊同人として参加(後述の同人誌「里」創刊まで在籍)、山下知津子らを知る。同年より、爽波門下が集う「洛」(椹木啓子発行・島田刀根夫=牙城の父=編集)に投句(1999年12月終刊まで在籍)。1998年、夏石番矢の誘いを受け、番矢代表の超俳句同人誌「吟遊」に、創刊準備号(No.0)よりNo.9まで在籍。
1999年3月、長野県佐久市新子田へ転居。2000年3月に個人紙「肘」を創刊し、信州での俳句生活を本格化させる。2001年4月、新子田公民館にて里俳句会第一回句会を持つ(「肘」は2002年5月、22号で終刊)。2002年6月、「里俳句会通信」創刊。2003年4月、月刊俳句同人誌「里」創刊。
また、2002年より2011年まで、俳句朗読の会「朗読火山俳」[8]を主導(全10回)。
2015年3月、兵庫県尼崎市へ転居。2019年4月、「里」同年1月号(通巻第190号)を出し、以後、雑誌は休刊状態となる。「里」は2021年9月復刊。
なお、存命中ではあるが、京都市洛西区の勝持寺(花の寺)門外の花の寺霊園に墓石を建立している。
編集歴
1981年、牧羊社入社後、リクルート出版、東京四季出版、福武書店、本阿弥書店を転々とする。その間、月刊俳句総合誌「俳句とエッセイ」編集担当(牧羊社)、単行本『大学の原点』(前川和彦著)編集(リクルート出版)、単行本『ザッツ、スーパー・エキセントリック・シアター』編集責任(東京四季出版)、『定本正宗白鳥全集』資料収集・筆記担当(福武書店)、「歌壇」編集長(本阿弥書店)などを歴任。編集者としての基礎を固める。1989年、邑書林に共同参画の形で入社、取締役編集長を経て、2014年より代表取締役編集長(2015年より取締役一人体制となったのに伴い、取締役編集長)。
『加藤楸邨初期評論集成』(全五巻)、『波多野爽波全集』(全三巻)、『松瀬靑々全句集』(全二巻別巻一)などのほか、「邑書林句集文庫」「セレクション俳人」などの廉価版句集の普及にも傾注する。2009年、2010年に立て続けに刊行した『新撰21』『超新撰21』(共に筑紫磐井・対馬康子・高山れおな編)は、21世紀の俳句の動向を占い探るものとして話題を集めた[9]。また、関悦史句集『六十億本の回転する曲つた棒』、御中虫句集『関揺れる』[10]、北大路翼句集『天使の涎』、堀田季何詩歌集『人類の午後』[11]など、時宜を得た若手の発掘にも定評がある。また、茨木和生『季語を生きる』、高山れおな『切字と切れ』など評論集、エッセイ集が邑書林から多く刊行されている姿も、牙城の編集態度を示すものと言えよう。
著書
執筆歴
- 『加藤楸邨初期評論集成』解題及び初期年譜(1991-1992、邑書林)
- 『波多野爽波全集』解題及び年譜(1992-1998、邑書林)
など。主要散文とおぼしきものは『俳句の背骨』に収められているが、40歳代に書かれた攻撃性の強い散文は、牙城自身「お蔵入り」[13]と記している。