島親典 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 安土桃山時代-江戸時代生誕 文禄3年(1594年)死没 万治4年(1661年)4月29日別名 五郎左衛門 凡例島 親典時代 安土桃山時代-江戸時代生誕 文禄3年(1594年)死没 万治4年(1661年)4月29日別名 五郎左衛門幕府 江戸幕府主君 長曾我部盛親 → 山内忠義藩 土佐藩氏族 秦姓長宗我部氏庶流島氏父母 島親益?子 親助テンプレートを表示 島 親典(しま ちかのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。長曾我部元親の末弟・島親益の子、もしくは孫。土佐藩主山内氏の家臣。 文禄3年(1594年)、長曾我部元親の末弟・島親益の子として誕生したとされる。しかし、島親益は元亀2年(1571年)、播磨・有馬温泉への湯治に向かう最中に海部友光に襲撃されて討ち死にしており、親典は子ではなく孫である可能性がある[1]。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで長曾我部盛親は石田三成率いる西軍に組したことなどで、改易され、代わりに山内一豊が土佐に転封してきた[2]。 慶長19年(1614年)、長曾我部盛親が大坂の陣に豊臣方で参戦した際、親典は盛親のもとに参陣し、八尾の戦いなどに参戦した[3]。しかし、慶長20年(1615年)、豊臣方が追い詰められると親典は負傷した身を押して大坂城を脱出し、土佐へ向かった[4]。その後、親典は自身が長曾我部一族であることや大坂の陣に豊臣方で参加したことを山内氏に名乗り出た。その後、親典は入獄させられ、籠舎で過ごした[5]。 元和4年(1618年)、赦されて出獄し、山内忠義に御用人として召し抱えられ、御歩行(徒士)の職を与えられた[6]。御用人は当時の土佐藩における武士の区分であった上士と下士の括りの中で下士に属する低い身分であった[7][8]。その後、親典は出世し、御小姓(性)の目付役へ、さらに御供達、御銀方、御台所方、年寄御城中御横目役を務めていった[9]。また、親典は生涯下士にあたる御用人の身分であったであったが、御小姓(性)の目付役は上士に属する役職であった[10]。 万治4年(1661年)に死去。享年68歳。戒名「心庵宗無居士」[11]。その死後、親典の43年の忠勤につき、山内忠義から大津八之丞を使者に立ってて、香典として銀子三枚を与えられた[12]。その跡を嫡男の島與助が継いだ[13]。 土佐藩島家 その後家系は続き、子孫の島義親は幕末の志士として活動した。波間吉親の子、親衛の時に長宗我部の名に復した。 親助 - 島弥左衛門親安 - 島久蔵親貞 - 島惣丞親家 - 島弥右衛門親平 - 島弥四郎親正 - 島歓次親臣 - 島與助親長 - 島與右衛門親和 - 島與助重親 - 島浪間義親 - 長宗我部親衛 - 長宗我部親 - 長宗我部友猪 - 長宗我部友親 脚注 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 土佐藩の身分は「職」と「格式」に別れており、上士と下士の区分が存在した。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 ↑ 長宗我部友親『長宗我部[要ページ番号]』文春文庫。 Related Articles