1791年、信濃国伊那郡明島村(現在の泰阜村明島)の島岡家に生まれる。出生名は島岡 喜助だったが、同姓同名の人物がいたことから、岡の字を除いて島姓に改めた[1]。
1813年、南湖が飯田に半年間逗留した際に師事した。
壮年の頃、飯田扇町(現在の飯田市立動物園付近)に移り住み、飯田藩主堀家のお抱え絵師となる。お抱え絵師は、藩の分限帳によると藩医に次ぐ職とされた。1834年の分限帳では、高麿と弟子の湖城喜一の二人がお抱え絵師であり[2]、高麿は国詰めとして飯田城に勤務した。
日常は藩主贈答用の注文画のほか、城中の障壁画の新規画や補修補筆、藩主所蔵画の修理、古画の複写、奥方やお女中などの使用品の装飾、加筆、更に現在の絵葉書にあたるような名勝、旧跡などの写真画などを仰せ付かった。神社仏閣への奉納額や個人の注文による肖像画も多く描いたが、藩主お抱えという事情から署名、捺印した作品は少ないとされる。
高麿は俳句や狂歌も得意とし、当時流行した俳句のチラシの版画などが飯田市立図書館に保存されている[3]。
主な門人には古田鷹麿、桜井峯麿、唐沢湖城(湖城喜一)がおり、その他にも年麿、重麿、貞麿、清麿などがいた。高麿は習画の際、牧谿の虎画、京都泉湧寺の双龍、狩野系の大鷲を模写させたと言われる[4]。
1871年2月10日80歳で没し、正念寺に葬られた。法名は「国川浄彩大悟」。