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崇綺

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崇綺(チュンキ、満洲語ᠴᡠᠩᡴᡳ[1] 転写:cungki、道光9年(1829年) - 光緒26年(1900年))は、中国代の政治家、大臣、官僚。氏族はアルト氏(阿魯特氏、Alut hala)。古琴文山

生年月日 道光9年(1829年
出生地 清の旗 北京
没年月日 光緒26年(1900年
概要 生年月日, 出生地 ...
崇綺
崇綺像
生年月日 道光9年(1829年
出生地 清の旗 北京
没年月日 光緒26年(1900年
死没地 清の旗 直隷保定府
称号 三等承恩公
配偶者 アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏)
アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏、継室)
グワルギャ氏(瓜爾佳氏、継々室)
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同治帝の皇后孝哲毅皇后の父。

生涯

咸豊4年(1854年)、旗兵訓練督練処の文案(書記官)に任じられた。のち兵部七品ビトヘシ(筆帖式)に叙任される。イギリス軍艦天津に侵入した際、城を守った功績により主事に抜擢され、さらに員外郎へ昇進した。

同治3年(1864年)、科挙の殿試で一甲の第一位、すなわち状元(首席)となった。これは清朝において唯一のモンゴル人出身の状元であり、また清初に満榜(満洲人専用の合格枠)が廃止されて以降、漢籍以外の出身者として唯一の状元でもあった。

同治9年(1870年)に侍講へ昇進。同治11年には詔によりその娘が皇后に冊立され、三等承恩公の爵位を賜った。その後、官を重ねて内閣学士、吏部侍郎、戸部侍郎に至った。

光緒2年(1876年)、会試副考官となり、鑲黄旗漢軍副都統を兼任。光緒5年(1879年)には外任として熱河都統となり、光緒7年(1881年)には盛京将軍に転任した。光緒9年(1883年)には病を理由に退いて戸部尚書の職を授けられた。光緒26年(1900年)には翰林院掌院学士となった。

崇綺は思想的に保守的で、康有為らの変法運動に反対していた。戊戌政変の後には光緒帝の廃位を主張した。庚子の拳乱(義和団事件)の際には「扶清滅洋」を唱える義和団を支持した。

八カ国連合軍が北京に入城すると、崇綺は北京に留まって守備にあたったが、まもなく保定へ逃れた。北京に残っていた彼の一家はすべて自殺し、その知らせが保定に届くと、崇綺は

「聖駕が西へ行幸されたため、すぐには死を選ばなかったが、国家回復の力もなく、ここに身をもって殉ずる」

という遺書を残し、蓮池書院において自殺した。 諡号は「文節」。昭忠祠に祀られた。

親族

先祖

  • 高祖父:ウルトゥナストゥ(烏爾図那蘇図)
    • 曾祖父:徳興 - 戸部尚書、正黄旗満洲都統。妻はリギャ氏(李佳氏)。
      • 祖父:景輝 - 嘉慶壬戌科の翻訳挙人。戸部尚書、正黄旗満洲都統。妻はジャンギャ氏(張佳氏)。
        • 父:サイシャンガ - 嘉慶丙子科の翻訳解元。戸部尚書・大学士。同母兄にバクタンガ(巴克唐阿)があり、道光乙酉科の翻訳解元で、理藩院郎中を務めた。
        • 母:満洲鑲白旗フチャ(富察)氏 - 護軍参領・興福の娘で、礼部尚書・貴慶の姪。祖先はかつて雍正帝の旧邸に仕えていた家系であり、一族には重臣オルタイ(鄂爾泰)の子オヨンゴ(鄂容安)の妻となったフチャ氏もいた。
          • 兄弟:崇続 - 鑾儀衛冠軍使。
          • 兄弟:崇熙 - 一等侍衛、伊犁領隊大臣。
          • 妹:恭粛皇貴妃 - 同治帝の妃嬪

  • 正妻:アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏) - 鄭親王端華の娘。
  • 継室:アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏) - 理王府の載耀の娘で、大学士福錕の姉妹。康熙帝の廃太子胤礽の7世孫。
  • 継々室:グワルギャ氏(瓜爾佳氏) - 総兵・長瑞の娘。栄禄の従姉であり、愛新覚羅昆岡はその姉妹の夫である。

子女

  • 子:葆初 - 散秩大臣。著書に『繪境軒読画記』がある
  • 娘(三女):孝哲毅皇后
  • 娘(五女):奕詳(嘉慶帝の皇孫)の妻

参考文献

脚注

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