崇綺
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生涯
咸豊4年(1854年)、旗兵訓練督練処の文案(書記官)に任じられた。のち兵部七品ビトヘシ(筆帖式)に叙任される。イギリス軍艦が天津に侵入した際、城を守った功績により主事に抜擢され、さらに員外郎へ昇進した。
同治3年(1864年)、科挙の殿試で一甲の第一位、すなわち状元(首席)となった。これは清朝において唯一のモンゴル人出身の状元であり、また清初に満榜(満洲人専用の合格枠)が廃止されて以降、漢籍以外の出身者として唯一の状元でもあった。
同治9年(1870年)に侍講へ昇進。同治11年には詔によりその娘が皇后に冊立され、三等承恩公の爵位を賜った。その後、官を重ねて内閣学士、吏部侍郎、戸部侍郎に至った。
光緒2年(1876年)、会試副考官となり、鑲黄旗漢軍副都統を兼任。光緒5年(1879年)には外任として熱河都統となり、光緒7年(1881年)には盛京将軍に転任した。光緒9年(1883年)には病を理由に退いて戸部尚書の職を授けられた。光緒26年(1900年)には翰林院掌院学士となった。
崇綺は思想的に保守的で、康有為らの変法運動に反対していた。戊戌政変の後には光緒帝の廃位を主張した。庚子の拳乱(義和団事件)の際には「扶清滅洋」を唱える義和団を支持した。
八カ国連合軍が北京に入城すると、崇綺は北京に留まって守備にあたったが、まもなく保定へ逃れた。北京に残っていた彼の一家はすべて自殺し、その知らせが保定に届くと、崇綺は
「聖駕が西へ行幸されたため、すぐには死を選ばなかったが、国家回復の力もなく、ここに身をもって殉ずる」
という遺書を残し、蓮池書院において自殺した。 諡号は「文節」。昭忠祠に祀られた。
親族
先祖
- 高祖父:ウルトゥナストゥ(烏爾図那蘇図)
- 曾祖父:徳興 - 戸部尚書、正黄旗満洲都統。妻はリギャ氏(李佳氏)。
妻
子女
参考文献
- 『清史稿』