崔玄亮
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貞元11年(795年)、進士に及第した。節度使の従事を歴任した。その性格は雅やかで飾り気がなく、道術を好み、競争を嫌い、長らく江湖を遊歴していた。元和初年、玄亮は知己の推薦により入朝した。監察御史となり、侍御史に転じた。密州・湖州・曹州の刺史を歴任した[1][2]。
大和元年(827年)、玄亮は入朝して太常寺少卿となった。大和4年(830年)、諫議大夫に任じられ、右散騎常侍に転じた[1][3]。
大和5年(831年)、宰相の宋申錫が鄭注に誣告されると、玄亮は諫官14人を率いて延英殿を訪れ諫言したが、文宗ははじめ聞き入れようとせず、宋申錫を処刑しようとした。玄亮が泣いて上奏すると、文宗も宋申錫の一死を赦した[4][5]。
大和7年(833年)、玄亮は病のため外任を求めた。そこで検校左散騎常侍・虢州刺史に任じられた。この年の7月、虢州で死去した。享年は66。礼部尚書の位を追贈された[6][5]。