崔邠
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若くして進士に及第し、さらに賢良方正科に登第した。貞元年間、渭南県尉に任じられた。拾遺・補闕を歴任した。上疏して裴延齢を非難し、このため当時に知られた。兵部員外郎・知制誥から中書舎人となった。さらに知吏部選補をつとめた。翌年、礼部侍郎となり、吏部侍郎に転じた[1][2]。
崔邠の性格は温厚で余裕があり、沈着謹厳で、ふるまいは簡素であったことから、憲宗に器量を重んじられた。裴垍が崔邠を宰相として推薦したが、崔邠は病のため受け答えに問題があり、宰相の事は沙汰止みとなった。兄弟4人が同時に奉朝請となったのは、異例のことであった。元和5年(810年)、太常寺卿に転じ、知吏部尚書事をつとめた。母が死去したため、崔邠は辞職して喪に服した。元和10年(815年)3月、喪中に死去した。享年は62。吏部尚書の位を追贈された。諡は文簡といった[1][3]。