崔鄲
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貞元19年(803年)、進士に及第した。秘書省正字に任じられ、渭南県尉として出向した。監察御史に累進した。三度異動して考功郎中となった。大和3年(829年)、本官のまま翰林学士をつとめ、中書舎人に転じた。大和6年(832年)、翰林学士から退任した。大和8年(834年)、工部侍郎・集賢院大学士となった。兵部侍郎・知礼部貢挙をつとめた。開成元年(836年)、兵部侍郎のまま知吏部選補をつとめた。まもなく吏部侍郎に転じた[2][3]。
開成2年(837年)、崔鄲は宣州刺史・兼御史中丞・宣歙観察使として出向した。開成4年(839年)、入朝して太常寺卿となった。7月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった。ほどなく中書侍郎・銀青光禄大夫を加えられた[4][3]。会昌元年(841年)、宰相を退任し[5]、剣南西川節度使として出向した。会昌6年(846年)、検校尚書右僕射となった[6]。ほどなく検校司空・淮南節度使に転じた。大中4年(850年)、死去した。享年は71。司徒の位を追贈された。