崔隠甫
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左領軍衛兵曹参軍を初任とした。殿中侍御史・内供奉となった。僧の恵範が太平公主の権勢を背景にして人々を脅かしていたため、隠甫は恵範を弾劾したが、かえって排斥され、邛州司馬に左遷された[2]。
玄宗が即位すると、隠甫は汾州長史に抜擢され、河東道支度営田使を兼ねた。開元初年、洛陽県令となり、その統治には威勢による評判があった。隠甫は并州司馬とされたが、赴任しないうちに河南県令に転じた。のちに華州刺史となった。開元9年(721年)、太原尹に転じた。民衆や官吏たちがかれの善政を讃える文章を石に刻んだ。開元12年(724年)、隠甫は入朝して河南尹となった。開元14年(726年)、程行諶に代わって御史大夫となった。ときに中書令の張説が宰相の地位にあったが、隠甫は宇文融や李林甫とともに張説を弾劾し、張説は宰相から退任した[1][2]。
隠甫は御史の職にあって、剛直にふるまい、貴顕を避けずに弾劾した。隠甫は張説との仲が険悪で、まもなく互いに朋党を結んでいると告発しあった。玄宗にこのことを憎まれて免官され、帰郷して母のそばに仕えた。1年あまりして、再び御史大夫に任じられた。のちに刑部尚書に転じた。母が死去したため、隠甫は辞職して喪に服した。開元21年(733年)、太原尹として復帰し、そのまま河東道採訪処置使をつとめた。再び刑部尚書となり、河南尹を兼ねた。開元24年(736年)、玄宗が長安に帰ると、隠甫は東都留守となった。その統治は厳粛で、民衆や官吏たちは感嘆して服従した[1][3]。開元27年(739年)9月、隠甫は死去した[4]。益州大都督の位を追贈された。諡は忠といった[5]。