太平公主

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太平公主(たいへいこうしゅ)は、高宗の娘。母は武則天(則天武后)。同母兄は中宗睿宗公主は皇帝を父に持つ皇女のことを指すが、太平公主の場合、父母ともに皇帝である。代に成立した『全唐文』の記述から、本名を李令月とする説もあるが、異説もある。

続柄 高宗第四皇女
武則天第二皇女
全名 一説に李令月
称号 鎮国太平公主
身位 公主
概要 太平公主, 続柄 ...
太平公主
続柄 高宗第四皇女
武則天第二皇女

全名 一説に李令月
称号 鎮国太平公主
身位 公主
出生 麟徳2年(665年
死去 先天2年7月6日
713年8月1日
配偶者 薛紹
  武攸曁
子女 四男四女
父親 高宗
母親 武則天
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生涯

武則天の愛娘

高宗の末娘として生まれた。8歳の時、一度出家して太平の道号を授けられる。母の武則天は、自分と容姿や性格がよく似ていた娘の太平公主を寵愛し、吐蕃から公主の降嫁を願う申し出があった際も、決して許さなかった。

永隆2年(681年)、薛紹城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生んだものの、夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死した。続いて載初2年(690年)、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑し、太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生んだ[1]

武周期の公主

病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執り始めると、その相談役として武則天政権の一翼を担う。武則天が皇帝に即位して武周を建てた後、公主も母の側近として隠然たる勢力を持った。武則天が病に倒れたと、その愛人であった張易之張昌宗兄弟が専横を極めたため、神龍元年(705年)、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させることに成功し、皇族中の重要人物として名を高める。鎮国太平公主の号に尊封された。

武韋の禍

その後、宰相張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復するが、張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させ、安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と結び、景雲元年(710年)、不倫の暴露を恐れた安楽公主が韋后と組んで中宗を毒殺した。「第二の武則天」となるべく韋后が温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡としたのを危ぶみ、甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をことごとく誅殺して、李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させた。ここに皇妹として太平公主の権勢は頂点に達し、万戸の封を与えられ、所生の男子3人もそれぞれ王に封ぜられ、一族も高位高官を占めた。一方、宰相の姚崇張説を左遷させるなど専権を極めるが、これらのことにより、次第に皇太子の李隆基と対立を深めていくこととなる。

玄宗との対立と死

先天元年(712年)、睿宗が皇太子の李隆基に譲位すると、皇帝(玄宗)と公主の対立は激化した。公主は英明な玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。先天2年(713年)7月、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った(終生、禁固を受けた説もある)。以後、玄宗の親政体制が確立し、「開元の治」と呼ばれる唐朝の最盛期につながっていく。

伝記史料

  • 新唐書』巻83 列伝第八 諸帝公主/高宗三女/太平公主

脚注

参考文献

登場作品

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