嵆含
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嵆 含[1](けい がん、嵇含[2]、262年 - 306年[2])は、中国西晋の学者[1]。『南方草木状』の著者[1]。字は君道、諡は憲、号は亳丘子[1]。
魏の景元3年(262年)嵆蕃の子として、鞏県亳丘(現在の河南省鞏義市)に生まれる[2]。父が早逝すると叔父の嵆紹(竹林の七賢の嵆康の子)に引き取られる[2]。
洛陽で郎中・中書侍郎に任ぜられ、司馬瑋・司馬冏・司馬乂らに従事した[2]。永興2年(304年)司馬虓に推されて従事中郎・振威将軍・襄城太守となった[2]。司馬虓の敗軍後、劉弘を頼って襄陽へ移り広州刺史に任命されるが、任地に赴く前に劉弘が死に、永興3年(306年)、弘の司馬郭勱に疑いを持たれて殺された[2]。享年44[2]。