川上喜久子
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静岡県小笠郡出身。平壌高等女学校、山脇高等女学校専攻科卒業。父は京城帝国大学総長などを務めた篠田治策である[1]。
山脇高女卒業後には歌人の与謝野晶子に師事し、文芸の道に進む。23歳の1927年(昭和2年)に大阪朝日新聞の懸賞短編小説に応募した「或る醜き美顔術師」が入選し商業誌デビュー。同時入選には石川達三や平林たい子がいた[1]。1924年(大正13年)から1931年(昭和6年)までの7年間は夫とともに朝鮮半島に居住していたが、本格的に作家業を開始してからは鎌倉市宅間ヶ谷に住んだという。
その後は『文學界』を中心に活動し、1936年(昭和11年)には「滅亡の門」(『文學界』1936年11月号)で第11回文學界賞を受賞。また同時に「滅亡の門」と「歳月」(『文學界』1936年8月号)は1936年下半期の第4回芥川賞候補となっている。翌1937年(昭和12年)には朝鮮を舞台とした「光仄かなり」を発表するが、戦争嫌悪の感情が書かれていたことから削除を命じられ、発売中止となった[2]。ちなみに1937年度上半期の第5回芥川賞でも彼女の作品(複数)が候補作となっている。