川上忠智 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不明死没 慶長12年3月14日(1607年4月10日)改名 忠智→肱枕(法号) 凡例川上忠智時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不明死没 慶長12年3月14日(1607年4月10日)改名 忠智→肱枕(法号)別名 助六、又七戒名 不落好雪庵主官位 左京亮、三河守主君 島津義弘氏族 川上氏父母 父:川上忠興兄弟 忠智、忠里妻 正室:春成久正娘子 忠堅、忠兄、久智テンプレートを表示 川上 忠智(かわかみ ただとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。薩摩藩士。 川上忠興の子として誕生。 島津義弘の家老を務め、日向国高鍋、大隅国栗野、薩摩国馬越、大隅国蒲生等の地頭職を務めた。元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いでは島津義弘の正室と嫡子の鶴寿丸の住まう加久藤城の城代を務めており、遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に伊東氏の軍勢を撃退せしめた。天正6年(1578年)、日向伊東氏の財部城主・落合兼朝が島津家に寝返ると、忠智は財部城主に任命される。 天正8年(1580年)、新納忠元、鎌田政年らと共に肥後国の阿蘇氏領の矢崎城(熊本県宇土郡)主・中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼす。天正12年(1584年)3月24日、沖田畷の戦いにおいて肥前国の龍造寺氏と戦いその本隊を襲撃、嫡子・忠堅が大将の龍造寺隆信を討ち取る大功を挙げている。 慶長12年(1607年)、病死した。 出典 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年1月) 小林市史編纂委員会『小林市史 第一巻』[要ページ番号] 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』[要ページ番号]新人物往来社 ISBN 4-404-01752-9 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)[要ページ番号] Related Articles