加久藤城
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概要
歴史
応永年間(1394年~1428年)に北原氏が、真幸院小田村の山に「久藤城(ひさふじじょう)」として築き徳満城の支城とした。永禄5年(1562年)に北原氏が滅ぶと島津氏の所有となり、島津義弘により中城と新城を加えられ、それらを縄張りに加えて「加久藤城」と名を改められた。
川上忠智を城代とし、義弘の正室(広瀬氏)と嫡子の鶴寿丸(つるひさまる)を住まわせていたが、元亀3年(1572年)5月4日に木崎原の戦いが起こる。伊東氏の軍勢は樺山浄慶の屋敷を攻撃後、鑰掛口から城を攻撃する。 忠智は遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に伊東軍を退けた。
天正4年(1576年)に鶴寿丸が8歳で病死すると、城中に墓をつくり葬った。現在、城へ向かう途中にある墓石は、明治元年頃に神道式に改築されたものである。 また義弘は、飯野城近くの地頭仮屋があった場所(現・えびの市役所 飯野出張所敷地内)に鶴寿丸の供養樹を植えており、現在も「飯野の大イチョウ」として残っている。
