川井春三
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奈良市の魚問屋の四男に生まれた[1]。1940年、旧制大阪城東商業学校卒業[1]。1942年3月、大阪YMCA無線電機学校高等科卒業[1]。同時に大日本帝国陸軍参謀本部に入り、北多摩陸軍通信所に配属されて無線情報活動に従事した[1]。1943年1月、関東軍特殊情報部隊に入営し、幹部候補生として教育を受けた[1]。同年末、北多摩通信所に教育要員として復帰[1]。1945年、派遣先の長野分遣隊で終戦を迎えた[1]。1946年4月、旧制大阪専門学校(現在の近畿大学)経済学部に入学[1]。のち中途退学し、父の営む奈良県魚株式会社で働いた[1]。
1957年の父の死を契機に、民族運動への挺身を決意した[1]。この頃、千葉県柏市の道徳科学研究所(現在のモラロジー道徳教育財団)社会教育講座を2年間受講した[1]。1958年8月、「祖国を愛し以って国運の隆昌発展を図る。国民道徳の高揚に努め以って国民の福祉増進に寄与す。世界の平和を図り以って人類の安心と幸福に貢献す。」との宣言を掲げ、政治団体大日本菊水会を結成した[1][4]。三曜会世話人、黒龍クラブ同人を務めた[4]。
パレスチナ解放運動に関心を持ち、現地のパレスチナ解放機構(PLO)幹部と接触、この運動は民族運動であると共鳴して、PLOに対し資金や資材を支援した[5]。1972年6月7日、訪問先のベイルートで記者会見を開き、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は日本赤軍をおだてて利用している、と述べた[6]。日本はPLOを承認すべきであり、国益に合致すると主張した[5]。
1974年6月、8団体による菊水連合連絡会議を発足させ議長に就任した[1][7]。職安自由労働組合を掌握し活動した[1]。
政治活動の傍らで、奈良市の運送会社新日本輸送を経営するなど、実業面で成功した[3]。1966年、宗教法人公道社精神道場(現在の神奈我良)を創設、一時期を除き、死去まで代表役員を務めた[2][8]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 島津書房 編 (1977年2月). “証言・昭和維新運動”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 島津書房. p. 253. 2025年12月10日閲覧。
- 1 2 “「高市総理の姉」と呼ばれる謎の女傑の正体…多額の寄付をする宗教法人代表の素顔を追う”. 現代ビジネス. 講談社 (2026年1月2日). 2026年1月2日閲覧。
- 1 2 “【追跡】高市早苗総理の巨大スポンサー「謎の女タニマチ」の正体とは…信者がいない宗教法人を追って”. 現代ビジネス. 講談社 (2026年1月2日). 2026年1月2日閲覧。
- 1 2 繁田千治 (1977年2月). “右翼の人脈”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 警察文化協会. p. 29. 2025年12月10日閲覧。
- 1 2 東京国民国際交流協会 編 (1975年). “アラブは訴える”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 広論社. p. 104-106. 2025年12月10日閲覧。
- ↑ “大日本菊水会歴史”. 「菊水連合」連絡会議. 2015年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年12月10日閲覧。
- ↑ 堀幸雄 (1991年2月). “右翼辞典”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 三嶺書房. p. 376. 2025年12月10日閲覧。
- ↑ “「お父さんが右翼活動をしていたことには触れられたくない様子」 高市首相に3000万円献金した「謎の宗教団体」代表女性の素顔”. デイリー新潮. 新潮社 (2025年12月19日). 2026年1月2日閲覧。
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