川添登
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東京都出身。駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科建築専攻から早稲田大学文学部哲学科心理学専修に進学。卒業後は早稲田大学理工学部第二部今和次郎研究室助手の傍ら建築学科に進学。1953(昭和28)年、卒業。今が結成した生活研究会幹事の担当をきっかけに月刊誌『新建築』の編集にかかわっていく。これにより同年より、新建築社勤務。『新建築』の編集長を務める。『日本美術年鑑』[1]によると川添がこのとき残した日本建築界への多大な功績のうちで特筆なのは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立したことであるといわれ、このため『新建築』誌上で建築家に論考を促し建築の背景にある思想を記述させたほかに、「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うため50年代半ばには伝統論をテーマに論争を仕掛け、言説を煽うなど建築ジャーナリズムを通し、日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けたという。さらにはこの時期は新建築の編集のみに留まらず、「岩田知夫」のペンネームで、新建築と、当時発行されていた建築雑誌『国際建築』や『建築文化』などの別雑誌にも寄稿して議論を盛り上げていく。しかし1957年、新建築問題(誌上で村野藤吾の有楽町そごうを批評したことに社長が激怒し、編集部員全員が解雇された)がきっかけで退職。独立してフリーの建築評論家となる[1]。
1960年世界デザイン会議日本実行委員に就任。またこれをきっかけに浅田孝、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの活動に参加した。特筆すべきはメタボリズム運動の中心メンバーとして活動を牽引、また世界デザイン会議において実行委員の中心として参画し他国から著名建築家を招聘の一方で、メタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版、日本発の世界的な建築理念を発表するに至ったことで、これは当時において海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した[1]ことであるという。
1969年には大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサーに就任。1970年に開幕した日本万国博覧会に尽力した。
また、林雄二郎をはじめ、親交ある梅棹忠夫、加藤秀俊、小松左京と「貝喰う会」こと日本未来学会を発足。1970年には京都に、加藤秀俊などとともに自身も設立に加わったシンクタンクのCDI(Communication Design Institute、コミュニケーションデザイン研究所)[2]所長(後相談役)も務めた。
1972年に日本生活学会を創設し、会長・理事長などを務めた。 1981年開催のつくば国際科学技術博覧会では政府出展総括プロデューサーに就任。
1987年から1999(平成11)年まで、郡山女子大学教授。1993年から1996年まで早稲田大学客員教授。1999年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長を務めた[3]。
2015年7月9日、肺炎のため死去[4]。89歳没。